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「なにぶん老人は初めてなもので」 その3 中沢 正夫

2017年08月28日 00時30分55秒 | 健康・老いについて
 「なにぶん老人は初めてなもので」 その3 中沢 正夫 柏書房 2000年発行

 中沢正夫 紹介
 1937年群馬県に生まれる。精神科医。「探検隊」員として椎名氏らと怪しき活動を行う。

 日本に老人文化は開花するか――隠居の条件 その2 P-13

 お邪魔にならぬよう片隅でそっと生き、ひそかに趣味や技能をみがくのを隠居学とはいえないだろう。また、老いを否定して現役を圧倒してしまうほど若々しさを前面に出して、変わった生き方をアピールし、技能を誇示するのも隠居学とはいえなかろう。常に第一線で譲らずうごきつづけるというなら、それは隠居したことにはならない。

 隠居学は外見ではなく心のありようの中にあるというかもしれない。老いもまた「自分の固有のもの」であり、二つとして同じ老い方はないので、あえて反対はしない。しかし、一人ひとりの心のありようまで拡散してしまえば、文化=「(隠居)学」にはならない。文化は浮き草ではない。それをささえる下部構造(この場合、経済的保障や老いに価値をみとめる社会にあたろう)がある。

 老いをささえる下部構造が年々ぐらつき目減りしているのに、隠居学が隆盛になるはずがない。
 この現実がわかりながら私はこのところ、興味がますますふえている。あれもやりたい、これもやりたい――それには退職しなければ・・・と考えている。このままではあれもやれない、これもやれないで終わってしまいそうで狂おしくなる。興味は拡大というより、次第に拡散しつつあるといった方がいいからである。