民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「大放言」 その14 百田尚樹

2017年08月10日 01時08分37秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「大放言」 その14 百田尚樹  新潮新書 2015年

 自分は誤解されているというバカ その1 P-29

「誰も俺のことをわかってくれない」
「みんな、私のことを誤解している」
 こういうことを口にする人は実に多い。気の置けない友だち同士で飲む時の愚痴の半分くらいはこれではないかというくらい、よく耳にする言葉だ。実際に面と向かって相談を受けたこともある。

 そんな時、私はいつもこう思う。「それは大きな勘違いである」と。「周囲の人は誰もお前を誤解していない。いやそれどころか、恐ろしいまでに正しく評価している」と。

 もし周囲の人があなたのことを、
「仕事ができない奴」と言うなら、それはまず正しい。
「気むずかしい奴」と言うなら、それもまず正しい。
「おべんちゃらばかり言う奴」と言うなら、それもまず正しい。
「そばにいると、疲れる子」と言うなら、それもまず正しい。
「尻軽で浮気な子」と言うなら、それもまず正しい。

 違う!本当の自分はそうじゃない、と反論したい気持ちはわかるが、他人の目はたいてい間違っていない。
 広い世界で自分のことが一番わかっていないのは、実は自分自身なのだ。

「こうありたい」「こうあるべきだ」という気持ちのバイアスが強烈にかかっているから、本当の自分を正しく見ることができない。当然、周囲の人の評価とは大きく食い違うことになる。それで「自分は誤解されている」という結論に至る。そして若い時ほど、その気持が強い。

「医学不要論」 その2 内海 聡

2017年08月08日 00時03分47秒 | 健康・老いについて
 「医学不要論」 その2 内海 聡(うつみ さとる) 三五館 2013年

 <消火器ガンの手術について> P-139

 私とまったく同意見ではないのだけれど、非常に示唆に富む意見を紹介しよう。『医者ができること、してはいけないこと』(小澤博樹)より、やや長くなるが、重要な箇所なのでそのまま引用する。

 (以下 引用)
 ガンをはじめ、すべての病気は「人体の酸化現象」としてとらえることができる。したがって、人体を構成する細胞一つひとつの「酸化状態」を改善しない限り、ガンは治らない。

 にもかかわらず、現代医学は、手術で人体を切り開くことにより、内臓まで空気にさらして「酸化」させ、
その上、手術中には「酸化力」の強い「麻酔剤」の投与や「輸血」を行なう。
 おまけに、手術のダメージからまだ覚めやらぬ患者の身体に、これまた「酸化力」の強い「抗がん剤」や「放射線」を浴びせかける。これでは、まるで「酸化のフルコース」である。

「抗がん剤」や「放射線」はともかく、「輸血」がなぜ身体を「酸化」させるかについては、説明が必要かもしれない。
「輸血用の保存血液」には、あらかじめ「放射線」が照射されている。殺菌し、アレルギー反応を起こさせないようにするためである。それは、ジャガイモが芽を出さないように「放射線」を浴びせるのと同じだ。
「放射線」の問題を差し引いても、「保存血のパック」には、もともと化学薬品が入れられている。血液の凝固を防ぐための薬品である。だから、純粋に血液だけを輸血するのではない。血とともに、さまざまな毒物を体内に入れる。

 (中略)

「ガン患者の体は、もともと酸化している」。むしろ、「酸化したがために発ガンしたのだ」と言える。それなのに、その患者さんに強い「酸化作用」を持つ「抗がん剤」や「放射線」を浴びせかけるのだから「毒の上塗り療法」としか言いようがない。

 少し前に、医師の「近藤誠」氏の著書『患者よ、がんと闘うな』(文藝春秋刊)がベストセラーとなった。
 この本の中で近藤氏は、ガンの「手術」や「抗がん剤」がいかに無意味であるかを説いている。そこまではよいのだが、なぜか、ご自身の専門分野である「放射線療法」だけは効果があると主張されている。これは、おかしな話だ。ほんとうは、三者(抗がん剤・放射線・手術)ともダメなのである。
「放射線療法」は、身体を極度に「酸化」させる。たとえば、原爆で被曝することは、原理的には「放射線療法」と同じだ。そして、被曝された方々が白血病などでたくさん亡くなっていったのを見ても、「放射線療法」がいいなどとは言えないはずである。

 (以上 引用終わり)

 これは非常に示唆に富む考え方である。ただ私はすべての病気が酸化によって説明できるとは思っていない。

「医学不要論」 その1 内海 聡

2017年08月06日 00時07分23秒 | 健康・老いについて
 「医学不要論」 その1 内海 聡(うつみ さとる) 三五館 2013年

 なぜ人は健康を求めるのか―――これについて、私には一つの提言がある。この世の医学者、治療家、セラピストをすべて敵に回す考え方である。
 それは、「健康でないことこそが人間として当然である」という考え方である。
 人間は常に不調を感じ、愚痴をこぼし、その不調とつき合いながら自然に生き死んでいくものである。これは医学不要論を提唱するうえで決して外せない概念だ。

 中略

「常に何の不調もない状態が健康」という考え方自体が洗脳されているということに気づかない。それが医療化を生み、さらなる不健康をもたらす。
 健康であるということは、体に何らの症状がないことだと考えている人が多いようだが、私に言わせればそれはおかしい。
 その症状はあなたのセンサーそのものであり、生きている証明そのものである。その症状を愛さねばならない。
 たとえば、あなたが下痢をしたとしよう。一般の人は「下痢をなんとか止めたい」と考える。しかし、その下痢はバイ菌を外に押し出すための防御反応であり、それを止めると病状は長引いたり悪化したりする。そうではなく、その症状は必然であり、その症状を大事にしながら脱水や体力低下に気をつけながら下痢が自然に治まるのを待つことが、実際は最も人体の治癒にとって有効なのだ。
 それを治そうと思うからこそ、医学の奴隷になる。健康ばかり追い求めるからこそ、いろいろな商法が生まれ、詐欺も発生する。(P-112)

「葬式は、要らない」 その14 島田 裕巳

2017年08月04日 00時06分44秒 | 生活信条

 「葬式は、要らない」 その14 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 村社会の成立と祖先崇拝 その2 P-75

 とくに江戸時代に入って、「寺請制度」が導入されたことは大きな意味をもった。
 すべての村人は、キリシタンや日蓮宗の不受不施派など、当時は危険視され禁教とされた宗教集団の信者でない証に、村内にある寺の檀家になることを強制された。各寺院は行政組織の末端に位置づけられ、いわば役所の戸籍係の役割を果すようになる。それによって、村人は必ずや仏教式の葬式をしなければならなくなり、戒名も授けられた。これを契機に、仏教式の葬式が庶民の間に浸透する。

 これは権力による信仰の強制であるわけだが、村人の側にもそうした信仰を受け入れる必然性があった。
 それぞれの村人は、必ずどこかの家に所属していた。家自体が共同体の性格をもち、家単位で水田を所有するとともに、家族全体が共同で耕作にあたった。家は生産の拠点であるだけではなく、後継者を確保する場であり、個人の生存は家によって支えられた。そうして家を創設した初代を中心とする先祖を供養する必要が生まれ、家の信仰として祖先崇拝が確立された。

 近世には、村全体は氏神によってまとまり、村を構成するそれぞれの家は祖先、祖霊によってまとまるという信仰体制が築き上げられた。寺請制度が受容されていくのも、それが祖先崇拝の信仰にうまく適合したからである。

「葬式は、要らない」 その13 島田 裕巳

2017年08月02日 00時14分15秒 | 生活信条
 「葬式は、要らない」 その13 島田 裕巳(ひろみ)1953年生まれ 幻冬舎新書 2010年

 村社会の成立と祖先崇拝 その1 P-75

 今でも、日本社会の特徴を指摘する際に、「村社会」ということばが使われる。村社会とは、内部でかたまって、ときに排他的な傾向を示す閉鎖的で規模の小さな社会のことである。

 (中略)

 近世の村落共同体は、稲作を大幅に取り入れ、新田開発を推し進めることで生産力を上げ、それにともなって共同体の結束を強化した。稲作には労働や水利の管理などの面で共同での労働が不可欠で、村の人々は集団として結束力を強める必要に迫られた。

 それは信仰のあり方にも影響を与えた。近代社会に入るまでは「神仏習合」が基本で、仏教と神道とは、それぞれの村のなかで役割分担をしながら併存していた。仏教の方は、葬式仏教として村人の葬式や法事・供養を担当し、一方神道の方は、氏神祭祀を営んで村を統合する役割を果たした。そのため村には、菩提寺としての仏教寺院と、氏神としての神社とが併設される体制が築かれていく。