「私の作文教育」 その2 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年
序章(導入) その2 P-4
作文は、読み手に影響を与える目的で書かれる。これは、まさにコミュニケーションである。コミュニケーションではない作文などというものは無い。有り得ない。(日記は、観念的に設定された別の自己に読ませるコミュニケーションである。)
だから、国語教育界で「相手意識」がことさらに、とりたてて注目・重視されるのは、不自然で奇異な感じさえする。「相手意識」は当たり前のことであり、それ無しには、作文という学習は成り立たないのである。
だから「コミュニケーション作文」などという用語は、なおさら奇妙である。全ての作文はコミュニケーションなのだから、「コミュニケーション作文」とは同義反復的(tautogical)な語である。つまり、「三つの辺が有る三角形」というような奇妙さである。三つの辺が無い三角形などというものが有るか。
私のこの本は、どう作文されているのか。ここまでに論じたように、「作文は読み手に影響を与えるため」であるという原理を説き実証して読者に納得させるという影響を与える目的で作文されている本である。つまり、この本自体に私の作文原理を具体的に示させるつもりなのである。そのように思って読み進んでいただきたい。
序章(導入) その2 P-4
作文は、読み手に影響を与える目的で書かれる。これは、まさにコミュニケーションである。コミュニケーションではない作文などというものは無い。有り得ない。(日記は、観念的に設定された別の自己に読ませるコミュニケーションである。)
だから、国語教育界で「相手意識」がことさらに、とりたてて注目・重視されるのは、不自然で奇異な感じさえする。「相手意識」は当たり前のことであり、それ無しには、作文という学習は成り立たないのである。
だから「コミュニケーション作文」などという用語は、なおさら奇妙である。全ての作文はコミュニケーションなのだから、「コミュニケーション作文」とは同義反復的(tautogical)な語である。つまり、「三つの辺が有る三角形」というような奇妙さである。三つの辺が無い三角形などというものが有るか。
私のこの本は、どう作文されているのか。ここまでに論じたように、「作文は読み手に影響を与えるため」であるという原理を説き実証して読者に納得させるという影響を与える目的で作文されている本である。つまり、この本自体に私の作文原理を具体的に示させるつもりなのである。そのように思って読み進んでいただきたい。