民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
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「私の作文教育」 その1 宇佐美 寛

2017年05月21日 00時41分52秒 | 文章読本(作法)
 「私の作文教育」 その1 宇佐美 寛 (1934年生まれ、千葉大学名誉教授) さくら社 2014年

 序章(導入) その1 P-3

 文章というものは、なぜ(何の目的で)書くのか。
 文章は、他者に読ませてその人に影響を与えるために書くものである。
 例えば、次のように影響するのである。読む者に、何らかの事実を知らしめる。筆者の判断・評価を書いて、納得・同調させる。問題を書いて、考えさせる。危機的状況を書いて、行動への意思を持たせる。怪談を書いて、恐怖感を持たせる。
 つまり、ある読者にある影響を与えることを目的として、文章を書くのである。私は文章を書く時、このような目的意識を持つ。そのような意識状態は当然である。だから、学生をも、このような目的意識を持つように指導する。

 文章を書くこと、つまり作文は、ある他者に読ませある影響を与える目的でなされるべきものである。この目的を実現し得る文章が良い文章なのである。
 この目的を持つからこそ、何をどこまで詳しく書けばいいのかが意識できる。つまり、この目的が有るからこそ、文の内容や形式を考える基準(めど)が出来るのである。


「ジグソーパズル」 マイ・エッセイ 28

2017年05月19日 00時05分16秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「ジグソーパズル」

 毎朝、決まった時間に起きなくても平気になって、もう八年が経つ。リタイアしたら好きな囲碁が思いっきり打てると楽しみにしていたのに、まだ一度も碁会所に行っていない。現役の時は思ってもみなかった新しいことにいろいろ手を出して、そちらに関心が移ってしまっている。                                                                         
 オイラは出不精なので自分の部屋にいることが多い。中央に据えてある座卓にドカッとあぐらをかくと、ちょうど目の前にガラス扉のついた、腰くらいの高さの飾り棚があり、その上に立てかけられた未開封のジグソーパズルの箱が目に入る。
 いつ買ったのか覚えていないほど、押入れの奥に眠っていたのを、四、五年くらい前に見つけて、ヒマができたらやろうと出しておいた。それからは目に入るたびに無言の圧力をかけてくるが、ずっと無視し続けている。
 どこで買ったかは覚えている。その頃はもうジグソーパズルをやることはなくなっていたが、以前に熱中したことがあって、デパートでジグソーパズルのコーナーを見つければ、どんなモノがあるか気になってのぞかなくてはいられない。そうしてひと目で気に入ったのが、この1,000ピース のゴッホが描いた『アルルの跳ね橋』だった。
 ジグソーパズルに熱中したのは独身時代のことだ。今はなくなってしまったが、宇都宮市の中心、二荒山神社の近くに『桃太郎』というおもちゃ屋があって、その二階の奥まった一角にジグソーパズルのスペースがあった。好奇心にかられてやってみると、少しずつできあがってゆく楽しみと最後のピースを入れる時の達成感に魅せられた。
 単純ではあるけれど、全神経を集中してピースを捜していると、余計な雑念はすっかり蒸発して、頭はからっぽになる。深夜遅くまでジグソーパズルにのめり込み、早く寝ないと明日の仕事にさしつかえると危惧しながら、あと一つ、あと一つと切りがなく、なかなかやめることができなかった。
 気に入った絵柄もなくなって、同じ模様のくり返しパターンが絵柄の、難解なジグソーパズルに挑戦するようになった。それらもどうにかクリアして、最後に手を出したのは絵柄のない黄色一色のヤツだった。500ピースだから数はたいしたことはないが、絵柄がないのでピースを捜すのに頼りになるのは形だけしかない。これが思ったよりきつかった。どうにか四辺の枠だけはそろえることができたが、それから先がなんとしても進まない。2時間、3時間とやっても一つのピースも見つからないことが続いてギブアップ。以来、ジグソーパズルから遠ざかっている。 
 『アルルの跳ね橋』の箱を見ながら、どうして手を出さないのか、ときどき考える。やればおそらく二週間くらいはかかるだろう。それまで目が持つだろうかという心配がある。かなりのスペースが必要になるから、その間ほかのことをやるのにジャマになるという問題もある。それに一度やりはじめたら完成するまではほかのことができなくなるというオイラの性分もやっかいだ。
 こうして考えてみると今まで手を出さなかったのも理解できないわけじゃないけど、なんだかなぁ、という違和感も拭い切れない。
 そんなに走ったって疲れるだけだよ、どこからか少し休んだらという声が聞こえてくる。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その14 伊藤 亜紗

2017年05月17日 00時03分30秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その14 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見える人には必ず『死角』がある」 P-69

 もう一度、富士山と月の例に戻りましょう。見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

 だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけなのではないか、という気さえしてきます。見えない人は、厳密な意味で、見える人が見ているような「二次元的なイメージ」を持っていない。でもだからこそ、空間を空間として理解することができるのではないか。

 なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。「自分がいる場所」と言ってもいい。もちろん、実際にその場所に立っている必要はありません。絵画や写真を見る場合は、画家やカメラが立っていた場所の視点を、その場所ではないところにいながらにして獲得します。顕微鏡写真や望遠鏡写真も含めれば、肉眼では見ることのできない視点に立つことするできます。想像の中でその場所に立つこうした場合も含め、どこから空間や物をまなざしているか、その点が「視点」と呼ばれます。

 同じ空間でも、視点によって見え方が全く異なります。同じ部屋でも上座から見たのと下座から見たのでは見えるものが正反対ですし、はたまたノミの視点で床から見たり、ハエの視点で天井から見下ろしたのでは全く違う風景が広がっているはずです。けれども、私たちが体を持っているかぎり、一度に複数の視点を持つことはできません。

 このことを考えれば、目が見えるものしか見ていないことを、つまり空間をそれが実際にそうであるとおりに三次元的にとらえ得ないことは明らかです。それはあくまで「私の視点からみた空間」でしかありません。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その13 伊藤 亜紗 

2017年05月15日 00時08分42秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その13 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人の色彩感覚」 P-68

 つまり、見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解していることになります。模型を使って理解していることも大きいでしょう。その理解は、概念的、と言ってもいいかもしれません。直接触ることのできないものについては、辞書に書いてある記述を覚えるように、対象を理解しているのです。

 定義通りに理解している、という点で興味深いのは、見えない人の色彩の理解です。
 個人差がありますが、物を見た経験を持たない全盲の人でも、「色」の概念を理解していることがあります。「私の好きな色は青」なんて言われるとかなりびっくりしてしまうのですが、聞いてみると、その色をしているものの集合を覚えることで、色の概念を獲得するらしい。たとえば赤は「りんご」「いちご」「トマト」「くちびる」が属していて「あたたかい気持ちになる色」、黄色は「バナナ」「踏切」「卵」が属していて「黒と組み合わせると警告を意味する色」といった具合です。

 ただ面白いのは、私が聞いたその人は、どうしても「混色」が理解できないと言っていたことでした。絵の具が混ざるところを目で見たことがある人なら、色は混ぜると別の色になる、ということを知っています。赤と黄色を混ぜると、中間色のオレンジ色ができあがることを知っています。ところが、その全盲の人にとっては、色を混ぜるのは、机と椅子を混ぜるような感じで、どうも納得がいかないそうです。赤+黄色=オレンジという法則は分かっても、感覚的にはどうも理解できないのだそうです。

「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その12 伊藤 亜紗 

2017年05月13日 00時02分33秒 | 雑学知識
 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その12 伊藤 亜紗  光文社新書 2015年

 「見えない人にとっての富士山と、見える人にとっての富士山」 その3 P-64

 こうした月を描くときのパターン、つまり文化的に醸成された月のイメージが、現実の月を見る見方をつくっているのです。私たちは、まっさらな目で対象を見るわけではありません。「過去に見たもの」を使って目の前の対象を見るのです。

 富士山についても同様です。風呂屋の絵に始まって、様々のカレンダーや絵本で、デフォルメされた「八の字」を目にしてきました。そして何より富士山も満月も縁起物です。その福々しい印象とあいまって、「まんまる」や「八の字」のイメージはますます強化されています。

 見えない人、とくに先天的に見えない人は、目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえることがありません。見える人が物を見るときにおのずとそれを通してとらえてしまう、文化的なフィルターから自由なのです。