「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その7 伊藤 亜紗 光文社新書 2015年
「見えないことと目をつぶること」 その3
それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子と違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。
脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。
変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠如」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。
この「意味」というものをめぐって、本書は最初から最後まで書かれているといっても過言ではありません。意味にはおのずと生まれるものと、意識的に与えるものがありますが、本書ではその両方を扱っていきます。
「見えないことと目をつぶること」 その3
それはいわば、四本脚の椅子と三本脚の椅子と違いのようなものです。もともと脚が四本ある椅子から一本取ってしまったら、その椅子は傾いてしまいます。壊れた、不完全な椅子です。でも、そもそも三本の脚で立っている椅子もある。脚の配置を変えれば、三本でも立てるのです。
脚の配置によって生まれる、四本のバランスと三本のバランス。見えない人は、耳の働かせ方、足腰の能力、はたまた言葉の定義などが、見える人とはちょっとずつ違います。ちょっとずつ変えることで、視覚なしでも立てるバランスを見つけているのです。
変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。脚が一本ないという「欠如」ではなく、三本が作る「全体」を感じるということです。
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。
この「意味」というものをめぐって、本書は最初から最後まで書かれているといっても過言ではありません。意味にはおのずと生まれるものと、意識的に与えるものがありますが、本書ではその両方を扱っていきます。