「目の見えない人は世界をどう見ているのか」 その9 伊藤 亜紗 光文社新書 2015年
「踊らされない安らかさ」 P-55
もちろん、難波さんも失明した当初は情報の少なさにかなりとまどったと言います。とまどったというより、それは「飢餓感」と言うべきものだったそうです。
「最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。(……)そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには2、3年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がない、と考えるようになりました。さっきのコンビニの話でいえば、キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えてた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました」。
見えないという条件で脳内に作られるコンビニ空間のイメージは、どうしたって見えていたときに目がとらえていたコンビニの空間とは違います。おそらくは、入り口と、よく買う商品と、レジの位置がマークされた星座のような空間でしょう。
「見えない世界の新人」のうちは、どうしてもこれを欠如としてとらえてしまっていた。しかし次第に、脳が作り上げたその新しいコンビニ空間で十分に行動できることが分かってくる。そのことに納得して歩くことができたとき、踊らされないで進むことの安らかさを、難波さんは悟ったのではないでしょうか。
「踊らされない安らかさ」 P-55
もちろん、難波さんも失明した当初は情報の少なさにかなりとまどったと言います。とまどったというより、それは「飢餓感」と言うべきものだったそうです。
「最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。(……)そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには2、3年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものにはこだわる必要がない、と考えるようになりました。さっきのコンビニの話でいえば、キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えてた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました」。
見えないという条件で脳内に作られるコンビニ空間のイメージは、どうしたって見えていたときに目がとらえていたコンビニの空間とは違います。おそらくは、入り口と、よく買う商品と、レジの位置がマークされた星座のような空間でしょう。
「見えない世界の新人」のうちは、どうしてもこれを欠如としてとらえてしまっていた。しかし次第に、脳が作り上げたその新しいコンビニ空間で十分に行動できることが分かってくる。そのことに納得して歩くことができたとき、踊らされないで進むことの安らかさを、難波さんは悟ったのではないでしょうか。