民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「舌打ち」 マイ・エッセイ 17

2015年12月10日 00時35分13秒 | マイ・エッセイ&碧鈴
 「舌打ち」
                                                 
 小銭入れが落ちていた。上質な本革の、正方形のヤツである。
 自転車に乗って、町の中心にある図書館に行く途中、二荒山神社前の交差点で信号待ちをしているときだった。
(ラッキー)
 すかさず拾って、これから交番に届けに行くという姿勢を誇示するように、手でつかんだまま信号が青になるのを待った。
 近くに交番があるのは知っている。
(いくら入ってるかな。誰かに見られてないかな)
 ドキドキしながら交番を通り過ぎ、図書館へ向かった。
 駐輪場に着き、まわりに誰もいないのを確かめて、そっと中身を見た。四つにたたんだ千円札が六枚に、硬貨が七、八枚。予想以上の金額に思わず右手でガッツポーズ、左手でⅤサイン。
 予約した本を受け取って帰る途中、
(どうしようかな。このままネコババしちゃおうか、それとも、交番に届けようか。三ヶ月たっても落とし主が出てこなければ、自分のモノになるっていうし・・・)
 気持ちがあっちへこっちへゆれ動く。さんざん迷った末に、意を決して交番に行く。
 好んで行きたいところではないが、今日のオレには大義名分がある。大イバリでなかに入った。
「財布を拾ったので届けにきました」 
 いい年をして得意顔になっている自分が恥ずかしい。
「いつ、どこで、拾われましたか」
「十分ほど前、二荒山神社の前の交差点で」
 ほんとうは三十分くらい前だったけれど、二十分サバを読んだ。
 ちょっとした説明を受け、住所と名前を聞かれているときだった。
 すさまじい自転車のブレーキ音がしたかと思うと、とっぽい格好の若者が、血相を変えて飛び込んできた。
「財布、落っことしたぁ」
 おまわりさんとオレの目が合った。
「なくしたのはいつごろで、どんな財布ですか」
「さっきまであったんだけど、いま使おうとしたらないんだ。こんぐらいの、革の小銭入れ」
 若者がせっつくように両方の親指と人差し指で正方形をつくった。
 ふたたび、おまわりさんとオレの目が合う。
「これですか」
 おまわりさんが小銭入れを見せた。 
 若者はびっくりして目を見張る。
「そうです、これです」
 若者は満面に驚きと安堵の表情を浮かべた。
「いくら入ってましたか」
「ええと、千円札が五、六枚に、あと小銭が何枚か」
 おまわりさんが同意を求める目つきでオレを見た。オレは黙ってうなづく。
「こちらの人がちょうど届けに来てくれたところです」
「ありがとうございます。それで、お礼はどうしたら・・・」
 不安そうにおまわりさんを見た。
「まだ正式に拾得物届けを受理する前だから、二人で話し合って決めてください」
 若者の視線がオレを向いた。
「いいですよ」
 オレは見栄を張った。
「ありがとうございます」
 若者は気が変わらないうちに、とでもいうように、そそくさと交番を出ていくと、自転車をきしませ、走り去った。


「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その3 中村仁一

2015年12月06日 00時21分29秒 | 健康・老いについて
 「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その3 中村仁一 講談社+α文庫 2013年

 本書は1994年刊行された「老いと死から逃げない生き方」を改題し、加筆・修正したものです。

 生活習慣病は「茶碗のヒビ」 P-38

 生活習慣病は、たとえれば「茶碗のヒビ」のようなものではないかと思います。
 茶碗のヒビはひとたび入れば、まずなくなることはありません。
 しかし、少々のヒビが入ったていたとしても、お茶も飲めればご飯も食べられるというように、茶碗としての用は立派に果たすことができます。
 ただ、ヒビの入り具合によっては、当然、その扱い方を慎重にしなくてはなりません。
 そういう配慮をしないと、ヒビがだんだんに拡がり、ついには割れてしまって、茶碗としての機能を果たさなくなってしまいます。
 つまり、症状が重ければ重いほど、生活規制を厳重にしなければならないのです。そうしないと、余病を併発したり、いのちを落とす結果にもなるということです。
 けれども、一般的には闘病により、このヒビを何とかなくそうと考え、また、医学は発達したといわえているのだから、なくなるはずだ、そうならないのは、いま、かかっている医者の腕が悪いせいだと考えてしまうのではないでしょうか。
 その結果、評判の専門医がいる病院のはしごが始まるのです。そして、どうやってもヒビがなくならないとわからせられた時、なぜ自分だけが治らない業病に取りつかれたのかと、運命の星を呪い、そして自棄を起こして投げやりになり、そのために一層ヒビを拡げることになってしまうことが、往々にしてあるのです。
 また、生活習慣病は投げ出すことのできない荷物と考えることもできます。
 一生、重い荷物を抱えていくのはたまりませんから、この荷物を軽くするのが治療と考えることができると思います。

「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その2 中村仁一

2015年12月04日 00時08分52秒 | 健康・老いについて
 「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その2 中村仁一 講談社+α文庫 2013年

 本書は1994年刊行された「老いと死から逃げない生き方」を改題し、加筆・修正したものです。

 ピンピンコロリは推奨できない P-22

 生きものは、繁殖を終えたら死ぬ、これは「自然界の掟」です。その典型を、産卵を終えたらすぐに息絶える鮭や、花を咲かせ実を結んだら枯れる一年草に見ることができます。
 ところが、人間は、栄養状態や衛生環境の改善、衛生思想の普及や医学、薬学の発達により、繁殖後もウン十年生きるようになりました。
 いつ死んでも不思議のない身が、他の生きもののいのちを奪って生かされているわけですから、果たさなくてはいけない役目があるはずです。
 わたしは、それには二つあるのではないかと考えています。
 一つは、年をとるとあちこち具合が悪くなりますが、それらと上手に折り合いをつけながら生きてみせること、つまり老いる姿を見せること。
 もう一つは、できるだけ自然に死ぬことで「死にゆく姿」を見せること。
 これらにより、後続の者に安心感を与えることができるのです。つまり、うちのじいさんは具合が悪いといいながらも、あんなふうに生きていたな、それならそんなに気にすることもないかとか、死ぬってあんなに安らかなのか、それならそんなにこわがることはないなというふうに。

 そこで、ピンピンコロリを考えてみましょう。ピンピンと元気でいて、コロッと死ぬわけですから、事前にどこの医者にも診てもらっていないはずです。(以下略)

 また、前述のように、死にゆく姿を見せるという大事な役割があるにもかかわらず、それを拒否しているわけです。ですから、これは、ケチの極みといってもいいすぎではないと思います。
 これにひきかえ、がんの場合は、理想的によきものと思っています。なぜなら、何の手出しもしない治療法を選べば(わたしは最後まで痛みにくるしまないと確信しているのですが)、じわじわと弱って、じっくりたっぷりと死にゆく姿を見せられ、最後の責が果たせると考えるからです。

「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ その1 中村仁一

2015年12月02日 00時16分51秒 | 健康・老いについて
 「治る」ことをあきらめる「死に方上手」のすすめ  中村仁一 講談社+α文庫 2013年

 本書は1994年刊行された「老いと死から逃げない生き方」を改題し、加筆・修正したものです。

 まえがき

 「死に方」は「生き方」です。従って、「死に方上手」は、上手な死に方ということではありません。死ぬまで上手に充実した人生を送るにはどうしたらいいかを、考えましょうということです。
 これまで、日本人は「死」を嫌い、考えないように避けてきました。しかし、「生」の充実のためには、「死の助け」が必要なのです。ちょうど、甘味を増すために塩がいるように。
 繁殖を終えたら(定年、還暦頃)、「死を視野に」入れて生きれば、その後の人生は、随分と締まったものになるはずです。
 今の年寄りは、あまりにも発達したといわれる近代医学に、過大の期待を抱きすぎています。どんな状態でも、病院へ行きさえすればなんとかなるとの思いを強く感じます。
 しかし、年寄りの不具合は、老化か老化がらみに因るものが大半です。残念ながら、近代医学に、年とったものを若返らせる力はありません。だとすれば、いまさら大病院の専門医のところへ押しかけてみたところで、すっかり治ることなどありえません。
「治らないものは治らなくてよい」と明(あき)らめ、「治す」ことを諦めて悪足掻(わるあが)きを止めると、生きるのがとても楽になるはずです。
 もちろん、医療は、人生を安楽に過ごすために利用する一つの手段です。従って、完全に治したいなどという大それた望みではなく、少しでも楽にという気持ちで利用されるのは構いません。
 年寄りは、「老い」にはこだわらず寄り添い、「病」にはとらわれず連れ添う。「健康」には振り回されず、「医療」は、あくまで限定利用を心がけ、「死に時」が来たら、まだ早いなどとぐずらないで素直に従うというのが、上手な生き方だと思います。
 それには、繁殖を終えたら「死を視野に」入れて、「明日死んでもいい生き方」をしているかを、折に触れて点検し、修正を繰り返しながら、その日まで生きることでしょう。
 また、死にかけてから、いろいろな延命手段を講じられても、嬉しくもありがたくもありません。そこで本書では、繁殖を終えた者に対しては、ふだんから「死を視野に」入れたかかわり方を提案するとともに、これまで、誰も触れてこなかった「延命介護」の問題に斬り込んでみました。
 勝手なことを書き連ねましたが、読者諸兄姉に、いくばくかでも参考になりましたら、望外の喜びです。