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「江戸の卵は一個400円」 その6 丸太 勲

2015年03月20日 00時08分10秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 庶民の着物は木綿が主流 P-66

 今では自分のサイズに合った服を手軽に買い求めることができるが、江戸ではまず反物を買い、着物に仕立てて着るのが基本だった。

 着物の生地も、今は繊維の多くが石油を原料とする化学繊維だが、当時、繊維の原料となったのは、主に綿、絹、それに麻だった。絹や麻の織物は日本で古くから作られ使用されてきたが、綿を原料とした木綿が普及したのは戦国末期から江戸時代にかけてのことだ。それまでの庶民の着物は麻の織物で、丈夫だが保温性に乏しかった。

 木綿の普及で庶民も暖かく冬を過ごせるようになり、木綿が江戸庶民の衣服の材料として代表的な物になった。中でも、現在の大阪府の東部にあたる河内は木綿の一大産地で、河内木綿は広く流通した。

 長屋暮らしの庶民が新しい着物をあつらえることはほとんどなく、古着屋から古着を買い求めて着用していた。木綿の古着なら、100文(2,000円)前後でたいていの衣服を買うことができたようだ。

 この古着も幾度も洗い張りをし、仕立て直して大切に着た。今で言うクリーニングとリフォームだ。冬は防寒に袷(あわせ)(保温のために裏地が付いた着物)を着るが、袷がなければ単衣(ひとえ)を二枚合わせて綿を入れ、夏には綿を抜いて単衣にした。大人が着られなくなると、小さく作り直して子供に着せ、それも着られなくなるとおしめや雑巾にするなど、着古しても無駄にすることはなかった。

「江戸の卵は一個400円」 その5 丸太 勲

2015年03月18日 00時04分46秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 江戸の100円ショップ P-40

 すべての商品を100円の均一料金で売る「100円ショップ」。今や生活に根付いたこの商売形態は、実は江戸にも存在した。

 明和5年(1768年)、一文銭よりやや大きい真鍮製の四文銭が発行され、多くの品物の値付けが四文または四の倍数となった。一串に五個刺さって五文(100円)だった串団子も、四文銭の発行を機に一串四個となり、値段も四文(80円)となった。

 そこで、江戸の100円ショップの均一価格は四文、どれでも四文で「四文屋(しもんや)」というわけだ。
 ただし、四文屋が商うのは今の100円ショップのような日用雑貨ではなく、焼き豆腐、きざみするめ、こんにゃく、れんこん、ごぼうなどを串に刺し、大鍋で煮込んだ総菜を売る屋台店だった。

 ほかにも、ワンコインでというわけにはいかないが、全品均一料金で日用雑貨を商う店も存在した。こちらはすべての商品が19文(380円)で「十九文見世」と呼ばれた。人通りの多い場所にむしろを敷き、日用品や玩具などを商った。その後、もう少し高級な品を商う38文(760円)均一の店「三十八文」も登場した。

「江戸の卵は一個400円」 その4 丸太 勲

2015年03月16日 00時28分45秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 必要な物は借りてすます P-39

 江戸庶民の住む長屋の造りは、火事を想定した安普請。火事に遭えば身一つで逃げるだけと、長屋の住人は最低限の物だけしか家財道具を持たなかった。この合理的な暮らしを支えたのが「損料屋」。

 損料屋とは、今で言うところのレンタルショップだ。品物を貸せばその分価値は目減りする。その目減り分を損料(レンタル代金)として受け取ったところから、この名が付いた。

 損料屋が貸す物は、鍋釜から衣装、旅に必要な物まであらゆる商品が揃っていた。たとえば、夏には蚊帳を借り、季節が過ぎたら返却する。祝儀不祝儀に必要な衣装も損料屋から借りてすませていた。

 品物を借りる場合は、損料のほかにも保証金が必要になる。たとえば損料が10文の場合は、保証料が20文で合計30文(600円)。もちろん、何事もなくきれいなまま返せばこの保証料は戻ってきた。

 

「江戸の卵は一個400円」 その3 丸太 勲 

2015年03月14日 00時23分16秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 奉公人 P-26

 商家への奉公は12~13歳で商家に入り、小僧(関西では丁稚)から始まる。小僧は基本的には無給。食事とお仕着せは商家から提供され、年に二度の薮入りのときに少々の小遣いがもらえる程度だ。

 小僧を7~8年勤めると手代に昇進し、給与が支給される。手代の年間給与は最初は(38~64万)くらい、その後(64~89万)と昇給する。雇用契約は10年限りと決められており、ここでいったん退職の形となり、再契約を結ぶ。素行が悪い、能力なしと見なされればここでお払い箱だ。

 このようにして無事勤め上げれば、使用人の頂点、番頭に出世だ。主人に代わって、商品の仕入れから販売まで営業のすべてを取り仕切った。番頭になれば羽織の着用も許され、外に家を持ち、通いも可能。結婚することもできた。

 番頭の給与は店の大小や経営具合によってさまざまだが、(256~384万)が平均相場、店によっては売り上げの歩合が付くところもあった。

「江戸の卵は一個400円」 その2 丸太 勲

2015年03月12日 00時10分22秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 江戸の三貨制度 P-16

 江戸で通用した貨幣には金、銀、銭の三種類があり、それぞれが独立して通用するという特異な状況にあった。言わば、円、ドル、ユーロが一時に通用していたようなものだ。したがって、お互いの交換率はその時々の相場によって変動した。

 ここでは文化・文政年間の相場、一両=6,400文で換算する。
 金貨は流通していた最高額面が一両、一両は四分、一分は四朱の四進法となっていた。

 現在貨幣価値への換算(文化・文政期と平成との比較)

 一文=20円    20×6,400=128,000
 一両=128,000円
 一分=32,000円  一両の1/4
 一朱=8,000円  一分の1/4
 銀一匁=2,000円  一朱の1/4

 この金、銀、銭をそのときの相場で両替していたのが両替屋。両替屋は両替時の切賃(きりちん)(手数料 1~2%)が収入源。

 大工は職人のうちでも高給取りで、一日の手間賃が(8,400円)、それに飯米料(昼飯代金)が別に付いて(2,400円)、合計(18,000円)。

 当時は旧暦で一年が354日、そのうち正月や節句、それに大工だから風雨の日は働けずに年間60日は休んでいたから、年間の実働日数は実際は294日。合計すると、一年の総収入額は(317万5,200円)。月割りにすると、26万4,000円。
 住まいは家族三人の暮らしで、家賃は九尺二間(くしゃくにけん)一間の裏長屋が(8,000~12,000円)、ちょっと広い四畳半が二間の2Kで月2万。

 火事が多い江戸では、長屋の仕様も火事で焼けることを想定して建てられた安普請だった。そのため柱も細く、隣との仕切り壁も薄い。隣の住人を呼ぶのにわざわざ隣まで出かけることもなく、仕切りの壁をトントンと叩けば、「何の用?」とすぐに返事が返ってくる。

 こんな状況だから、隣の喧嘩も夜の睦言も筒抜け。しかし、気にする住人はいない。翌朝の井戸端会議で、「昨夜(ゆうべ)はお盛んだったね~」とからかわれておしまいだ。

 プライバシーもない代わりに、お互いに助け合って暮らすのが裏長屋。醤油や味噌の貸し借りから子供の面倒見まで、人情味あふれる裏長屋の暮らしは快適だった。