民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

語り手のわたしと聞き手のあなたが
一緒の時間、空間を過ごす。まさに一期一会。

「江戸の卵は一個400円」 その1 丸太 勲

2015年03月10日 00時47分30秒 | 雑学知識
 「江戸の卵は一個400円」 モノの値段で知る江戸の暮らし 丸太 勲 光文社新書 2011年

 はじめに――物の値段を知ると江戸の暮らしが見えてくる

 天正18(1590)年、徳川家康が江戸に居城を移した。それ以前の江戸は、人家もわずか100軒あまりの、江戸湾に面したささやかな漁村だった。

 その江戸も、幕府が開かれて以来、急激に拡大・発展していく。諸大名は江戸屋敷を設け、各地からは商人・職人が集まり、商家が軒を並べた。「一日千両の商い」をすると言われた魚河岸、歌舞伎三座が集まる芝居町、遊女3,000人を抱える吉原と、江戸は活気あふれる一大都市へと成長した。

 発展する都市に人が集まるのは今も昔も同じで、江戸も後期になると人口100万人を超えるまでになった。当時はパリやロンドンの人口が60万人ほどで、江戸はそれらをもしのぐ世界一の大都市だった。

 江戸は幕府の置かれた政治都市で、町人60万人、武士や寺方65万人と、政治を司る武士の人数が多く、五割強を占めていた。
「大江戸八百八町」と言われるが、実際には1,000町を越えていた。しかし、江戸の町(朱引き内)の約50%が農地、35%が武家地、5%が寺社地で、町屋はわずか10%。この10%の地域に約60万人の町方が暮らしていたのだから、人口密度は大きく、庶民は長屋にひしめき合って暮らしていた。

 人口世界一のみならず、都市機能も完備されていた。長屋にまで水道(玉川上水・神田上水など)が引かれ、「水道の水で産湯を使った」というのが江戸っ子の自慢でもあった。

 糞尿は近郊の農家が買い取って肥料にするという循環型社会で、町も清潔に保たれていた。当時のロンドンには糞尿を窓から投げ捨てていた地域もあるというから、江戸っ子がこれを聞いたら、「なんと不潔な町か!」と驚いただろう。

 さらに、江戸では1,200~1,300以上の寺子屋があり、識字率は70%とこれも世界一。文化的な都市でもあったのだ。

「あの、ぬるく、水っぽいお粥」  岸本葉子

2015年03月08日 00時13分49秒 | エッセイ(模範)
 「あの、ぬるく、水っぽいお粥」  岸本葉子  『幸せまでもう一歩』所収 「エッセイ 脳」P-52

 七日間の絶食を体験した。入院して、腸の検査を受けた後のことである。
 術後すぐの数日は、飲まず食わずでもいっこうに空腹感を覚えない。が、体力が回復するに比例して、何か口にしたい衝動がつのってくる。必要な栄養は、点滴でちゃんと取れているのだが、それとは別の問題のようだ。八日目の朝から許される流動食が、ひたすら待たれる。

「解禁日」の前日は、ほとんどもう食べ物のことしか考えられない状態になり、これで何かの手違いで配膳が忘れられたりしたら、卒倒するのではないかと思われた。

 そしてその朝、運ばれてきたのは。「これが、お粥・・・・・」
 プラスチックの丼の底の方に、うっすらと溜まっている。障子を貼る糊よりも、水分が多そうな。
 試みに箸でかき回してみたが、みごとなまでに、ひと粒のご飯も入っていなかった。流動「食」というより流動「飲料」と呼びたい。
 が、
丼を持ち上げ、顔に近づけると、おお、ふわっと鼻を包む甘い香り。これぞ、ニッポンの主食、お米の澱粉質の香りだ。
 次いで、口の中に広がる生暖かさ。病院食だから、熱々というわけにはいかなかったが、舌に乗って、喉へ、食道へと順送りされていく。食べ物を口から摂取するという、当たり前の感覚が、よみがえった。
 胃腸までが早くも反応し、くるくると鳴っている。ひと口のお粥で、全身を貫く一本の管が、活動を再スタートしたような。

 食い意地の張った私は、退院後、絶食した分を取り返すかのごとく、あれこれの料理を味わったけれど、あの病院食のぬるく、水っぽいお粥は、忘れがたい一品である。 


 うまいなぁ、と感心したエッセイ。

(注)原文は一行あけなしに書かれている。「起承転結」をわかりやすくするために一行あけた。

 エッセイを成り立たせている文章を三種類に分けてとらえると、
 1、枠組みの文→時間・場所、人物・物の紹介。
 2、描写→さらに具体的に、詳しく書き込む。
 3、セリフ→「 」( )でくくるような話し言葉、独り言。
 書くときの自分の意識として、この三種類を意識しながらはたらかせています。
 書く上で、「この文章は、今、どのはたらきをしているか」「このへんで、こういう役割をする文章を入れておく方がいい」などと考えながら配置していますが、その、はたらき、役割によって整理してみれば、この三つになるというものです。(岸本葉子)

 青色→枠組みの文 
 黒色→描写 
 赤色→セリフ 

「インテリ」 山本 夏彦

2015年03月06日 00時06分30秒 | エッセイ(模範)
 「日常茶飯事」 山本 夏彦 新潮文庫 2003年(平成15年)

 「インテリ」 P-11

 前略

 「共通の言葉」こそすべてである。古往今来これを普及させたものが天下をとった。未組織の労働者まで、共産党の言葉で話すようになれば、それは組織化されたということで、天下は共産党のものになったということなのである。
 以前は八紘一宇といった。一億一心、撃ちてしやまむ、そのほか凡百の紋切り型あって、大臣も隣組長も、それを操ったから、みんなまねをした。つまり、彼らの天下だった。
 凡百というのは誇張で、百なんぞありはしない。五十もあれば多いほうで、人民の、人民による、人民のための政治――
 民主主義にもやっぱり相応のスローガンがあって、それをいろいろ置きかえて喋れば、すなわち一億みな民主主義というわけなのである。つまり、同時代の人だという証拠で、人は互いにその証拠を求めあって、話しているようなものだ。そして相手の口からこれを聞きだして、安心してメートルをあげるのである。
 いつの時代でも、この五十語さえマスターしていれば、脳ミソはいらないのである。しかも人はなお自分の脳ミソの主人公は、ほかならぬ自分だと思いこんでいる。自分で考え、自分で発言していると思っているが、とてもこの五十語を出ることはできはしない。生まれて、喋って、そして死ぬのである。
 今までもそうだった。これからも、そうであろう。

「博士の本棚」 小川 洋子

2015年03月04日 00時15分22秒 | エッセイ(模範)
 「博士の本棚」 小川 洋子 新潮文庫 2010年

 「斎藤真一の『星になった瞽女(ごぜ)』 P-89

 『絵画の小宇宙』というテーマをいただいた瞬間、斎藤真一さんのことを書こうと決めた。一枚の絵の中に隠された世界を言葉で探索してゆくのに、これほど魅力的な画家はいないだろうと思った。
 そう感じた理由の一つは、斎藤氏が画家であるのと同時にすぐれた文章家であったことが、関係しているかもしれない。瞽女さんでも吉原でも、心打たれる対象に出会うと、絵に描くのとおなじように本を著し、エッセイストクラブ賞まで受賞している。
 これは私の想像だが、言葉の持つ力と、絵の持つ力が、画家の中で特に融和し、時に火花を散らしてゆく中で、作品が生まれていたのではないだろうか。だからこそ、出来上がった絵には、物語がにじみ出ている。題材の背景や、もちろん著者の存在など知らなくても、そこに描かれたものたちが語りかけてくる声を、聞き取ることができるのだ。
 では、どの絵を選ぶか。生前プレゼントしていただいた画集をめくり、私は大いに迷った。ラッパ吹きやパントマイムや田舎劇場を描いたヨーロッパのシリーズも好きだし、メリーゴーランドの絵も思い出深い。いや、むしろ宇宙というキーワードからすれば、ブリキの幻灯機やランプやアコーディオンを描いた静物画の方が、いいかもしれない・・・。などとあれこれ考えながら、幸せなひとときを過ごした。
 しかし、やはり、瞽女さんを選ぶべきだろう。ジプシーを追ってヨーロッパを放浪し、言葉も血液も違う彼らの心をつかむのに、どうしても観念の中から抜け出せないもどかしさを感じた斎藤氏は、帰国の翌年、盲目の旅芸人である瞽女さんの存在を知る。以来、十余年にわたって瞽女宿を巡り、生活に直(じか)に触れ、同じ越後の山を歩いて、ほとんど社会から忘れ去られようとしていた彼女らの存在を、丹念に掘り起こしていった。越後高田で瞽女杉本キクエさんに会った時、『はじめて人間に出会えた感動にとらえられてしまった』と、斎藤氏は記している。
 つまり斎藤氏は、瞽女さんを描くことによって初めて、本当の人間を表現できたのである。

 中略 『星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)』倉敷市美術館蔵 絵の説明

 瞽女さんは目が見えないのに、星の持っている本当の姿を見ることができる。
 最後に、正直に書いてしまおう。私が斎藤氏を取り上げた一番の理由は、あれほど素敵な紳士に、出会ったことがないからだ。お洒落で、話題が豊富で、女性を敬って、瞳が美少年・・・。
 久しぶりに『星になった瞽女(みさお瞽女の悲しみ)』をしみじみと眺め、もう二度とあの瞳に出会う機会はないのだと思い知らされ、胸が苦しくなった。

呉清源」 その5 坂口安吾  

2015年03月02日 00時34分56秒 | 雑学知識
 「呉清源」 その5 坂口安吾  

 呉清源は、勝負をすてるということがない。最後のトコトンまで、勝負に、くいついて、はなれない。この対局の第一日目、第二日目、いずれも先番の本因坊に有利というのが専門家の評で、第一局は本因坊の勝というのが、すでに絶対のように思われていた。三日目の午前中まで、まだ、そうだったが、呉氏はあくまで勝負をすてず、本因坊がジリジリと悪手をうって、最後の数時間のうちに、自滅してしまったのである。
 もとより、勝負師は誰しも勝負に執着するのが当然だが、呉氏の場合は情緒的なものがないから、その執着には、いつも充足した逞しさがある。坂田七段は呉清源に気分的に敗北し、勝っている碁を、気分によって自滅している。呉清源には、気分や情緒の気おくれがない。自滅するということがない。
 将棋の升田は勝負の鬼と云われても、やっぱり自滅する脆さがある。人間的であり、情緒的なものがある。大豪木村前名人ですら、屡々自滅するのである。木村の如き鬼ですら、気分的に自滅する脆さがあるのだ。
 それらの日本的な勝負の鬼どもに比べて、なんとまア呉清源は、完全なる鬼であり、そして、完全に人間ではないことよ。それは、もう、勝負するための機械の如き冷たさが全てゞあり、機械の正確さと、又、無限軌道の無限に進むが如き執念の迫力が全てなのである。彼の勝負にこもる非人間性と、非人情の執念に、日本の鬼どもが、みんな自滅してしまうのである。
 この対局のあと、酒にほろ酔いの本因坊が私に言った。
「呉さんの手は、当り前の手ばかりです。気分的な妙手らしい手や、シャレたような手は打ちません。たゞ、正確で、当り前なんです」
 本因坊が、現に、日本の碁打ちとしては、最も地味な、当り前な、正確な手を打つ人なのであるが、呉清源に比べると、気分的、情緒的、浪漫的であり、結局、呉清源の勝負にこもる非人間性、非人情の正確さに、くいこまれてしまうらしい。
 結局は、呉清源の勝負にこもる非人間性、これが克服すべき問題なのだ。坂田七段の場合にしても、本因坊の第一局にしても、勝っていた碁が、結局、呉清源の非人間性に対して、彼らの人間の甘さが、圧迫され、自滅せしめられているのである。
 中国と日本の性格の相違であろうか。そうではなかろう。織田信長などは、呉清源的な非人間性によって大成した大将だった。結局、この非人間性が、勝負師の天分というのかも知れない。それだけに、彼らの魂は、勝負の鬼の魂であり、人間的な甘さの中で休養をとり、まぎらす余地がないのである。家庭的な甘い安住、女房、子供への人情などで、その魂をまぎらす余地がないのだ。
 しかも、彼らほどの鬼の心、勝負にこもる非人間性をもってしても、自己の力の限界、自己の限界、このことに就てのみは、機械の如く、鬼の如く、非人間的に処理はできない。否、その自らの内奥に於て、最大の振幅に於て、苦闘、混乱せざるを得ないのである。むしろ彼らの魂が完全な鬼の魂であるために、内奥の苦闘は、たゞ、永遠の嵐自体に外ならない。
 呉清源がジコーサマに入門せざるを得なかったのも、天才の悲劇的な宿命であったろうと私は思う。

底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
   1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行

底本の親本:「文学界 第二巻第一〇号」文学界社
   1948(昭和23)年10月1日発行
初出:「文学界 第二巻第一〇号」文学界社
   1948(昭和23)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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