民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「どくとるマンボウ青春記」 その11 北 杜夫

2016年06月30日 00時25分59秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「どくとるマンボウ青春記」 その11 P-65 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 しかし、こうして教師も鍛えられ、次第に威厳のある先生になる。
 ある教授の授業は、まことに息がつまるおっかなさをはらんでいた。彼が教場に姿を現し、やおら閻魔帳を開くと、辺りはしんとした寂寞に閉ざされた。本当にクラスじゅうが呼吸をとめるのである。そして、全員がまさに窒息寸前になったころ、彼はようやく一人の生徒を指名する。すると長時間海中にもぐっていた海女(あま)が浮かび上がって呼吸するにも似た吐息がいっせいに洩れた。
 この先生にしても、はじめて松高に赴任して最初の講義のときは、彼自身が躯(み)が震えるような気分であった。教場にはいると、後方の席に自分より齢(とし)を喰っていそうな物凄い髭づらの生徒が腕組みをし目をつぶって坐っている。講義を始めても目を開かない。気味が悪いので、知らず知らずそっとそちらを窺う。と、やにわにその髭づらがカッと目を見開いたと思うや、懐ろからでっかいドスを取りだした。先生はギョッとしてまさに逃げ出そうと思った。しかし、その髭づらの生徒は、何の事はなく、単に小刀で鉛筆を削りだしたのであった。