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「一葉賛・質屋の話」 青山 光二

2016年06月04日 01時46分52秒 | エッセイ(模範)
 「カマキリの雪予想」 2006年ベスト・エッセイ集 日本エッセイスト・クラブ編 文春文庫

 「一葉賛・質屋の話」 P-274 青山 光二(作家)

 樋口一葉の写真入り新五千円札を早く手に取って見たいと思っているのに、なかなか手に入らない。説をなす者あって、恐らく入手した人が手離さないので、他の二種類の新札のようには流通しないのだろうというのだが、おそらく一葉贔屓の同業者の贔屓の引き倒し式偏見に過ぎないだろう。
 新紙幣が発行された11月1日、NHKテレビが、一葉ゆかりの質屋が現存しているというので、その外見を紹介していたが、金の苦労をぞんぶんに味わった一葉は、質屋通いの常連・達人だったのではないか。
 彼女の時代、小説家が貧乏だったのは当たり前だが、爾後半世紀あまり、私が駆け出しの作家だった頃、御三家と名指されていた中間小説雑誌三誌にも年に何回かは作品を発表していた頃だって、女房が質屋通いを事とするのは珍らしいことではなかった。
 (中略)
 樋口一葉も貧乏だったからこそ「にごりえ」や「大つごもり」が書けた」いや、「にごりえ」や「大つごもり」のような入魂の作を、手間も時間もかけて書いていたのでは質屋の暖簾と縁は切れない。
 一万円や千円のシンボル写真ではなくて、五千円札にぴったりなのである。一万円札では噴飯ものだし、千円札では、だいいち小説家という職業人に似合わない。
 私自身、若い頃(学生時代を含む)から質屋の暖簾を煩雑にくぐった。二重回し(インバネス)俗にトンビというのがある。父が以前に着用したらしいのを引っ張り出して着たら、実に便利で着心地がいい。織田作之助がすぐ真似した。
 (中略)
 二重回し(通称トンビ)を質屋に持って行くと五円貸してくれた。妥当な値段である。東京、大阪間の国鉄運賃は、当時たしか五円の枠内だった。
 織田(作之助)大阪に、私は東京に常住していた時期、どちらかに急な用件が生じるとトンビを質屋にあずけて汽車にとび乗るということがよくあった。今なら電話で話がすむような内容の用件のために、織田は汽車に乗って東京の私のアパートへ乗りこんでくるのだ。そんな場合、特に織田は身の軽い男だったが、私のアパートに泊まっては喀血を繰りかえした。
 (中略)
 質草としてトンビも嵩張る方だったが、もっとひどく嵩張る質草を抱えて私たちの前へ現れた男の姿を忘れられない。檀一雄である。質草になりそうな物を一切がっさい抱えてきたというのだが、巨大な風呂敷包みを抱えてタクシーから降り立つと、私たちの溜まりの酒場へ乗りこんできた。満州へ行くと云う。その旅費をつくるための質草だった。満州が、旅券なしで行けるいちばん遠い所だったのだと記憶している。昭和11年頃の話だ。
 本郷の東大農学部前の裏通りにあった『紫苑』というボロ酒場が、太宰治や檀一雄の《日本浪漫派》と、私や織田作之助の《海風》同人の溜まり場になっていた。太宰さんはトンビを着て中央線の奥からよく通ってきていたが、どういうわけか私は太宰さんより前から、ろくに酒も呑まないのにこの店のヌシみたいな客だった。
 檀一雄は実際に満州へ行って、恋までして、お姫さまのような女性と結婚しそうになった。大風呂敷のなかみは檀の全財産だったと思われるが、はるばる満州までの旅費に変わる財産とはいったい何だったのだろう。
 貧乏で苦労した大先輩樋口一葉のことから、つい質草の話に流れてしまった。

 発行後一ヶ月に当たる頃、新五千円札を私も入手した。一葉姐さんコンニチワという感じだった。
 (「小説新潮」一月号)