民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「子ども茶碗」 平松洋子

2016年06月02日 12時34分22秒 | エッセイ(模範)
「平松洋子の台所」 平松洋子 新潮文庫 2010年

 ダイエットの武器 「子ども茶碗」 P-189

 世の中にこんなかわいいちっちゃな茶碗があることを、娘がおとなになってしまって忘れていた。
 そういえば、娘が離乳食を終えておとなといっしょのごはんを食べるようになったころ、片手にすっぽり入ってしまいそうなちっちゃなごはん茶碗を初めて買ったのだったっけ。そのときの照れくささを今でもまざまざと思い起こすことができる。
 プラスティック子ども食器なんて、かえって子どもをばかにしているよ。そう思っていたから、うつわは全部おとなといっしょのものばかり、とりたてて子ども用の食器は揃えなかった。それでも、小食だった娘の食事を少しは盛り立ててやらなくちゃ、とごはん茶碗だけはかわいらしい絵柄のついた磁器のお茶碗を選んでみたのだった。
 そんななつかしい情景がいっきに甦って、わたしは日本民藝館のミュージアムショップの一角で遠くを見つめる。並べてある食器のなかから思いがけず有田焼のシンプルな子ども茶碗を掘り出したのだ。
 そのちっちゃな茶碗のすべすべの肌をさすって20代のころの記憶をたどりながら同時にリアルな現実をあぶらせる。脳裏に閃光がビビッと閃いていた。いい考えがあるぞ! この子ども茶碗をダイエット茶碗と名づけて活用しようじゃあないの。
 ダイエットは世の中で最も苦手なことのひとつである。もっともらしいいいわけはいくらでもつくが、なに、ようするに食いしんぼうなだけである。たったそれだけのことなので、居直りもせず自らを卑下もせず、なりゆきまかせにしかならない。
 そんなふうに窮めて意志というものが弱く、食べることにもめっぽう弱いわたしにとってたいそう有効に違いないダイエットの手段を、この子ども茶碗に求めようというのだ。
 端正なすがたのちいさなお茶碗に炊きたてふくよかなごはんを、ことさらふんわり盛る。すると、大人の茶碗の半分くらいしか入らないというのに、むしろこの一膳を大事にゆっくりいただこうという気持ちになるから不思議なものだ。ぜんぶ食べ終わったころには、ありがたい気持ちさえ湧き起こっていたりする。
 がまんに耐える湿っぽく情けない気持ちをむやみに逆撫でしないところが、オトナのためのちっちゃなこの茶碗の美徳である。