民話 語り手と聞き手が紡ぎあげる世界

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「どくとるマンボウ青春記」 その8 北 杜夫 

2016年06月24日 00時06分41秒 | 本の紹介(こんな本がある)
 「どくとるマンボウ青春記」 その8 P-49 北 杜夫  新潮文庫 (平成12年)

 交通機関の混雑も甚だしいものがあった。朝夕には制限時間があって、その時間内は切符を買うことができなかった。国電の中でもみくちゃにされるのはまだいいとして、このとき危殆に瀕するのが私の特異の朴歯であった。私はしばしばひっくり返りそうになり、また本当にひっくり返りもし、実にしばしば鼻緒を切っている。電車の中で足から外れた朴歯がどこか無数の他人の足の間に消えてしまって参ったこともあれば、真っ暗な夜道でまたしてもひっくり返り、このときは朴歯の歯がどこかへとんでしまい、マッチをつけて捜していると、マントをのせて地面に置いた荷物に通行人が突きあたり、「行路病者だ」とか騒いだこともある。
 私の大事な朴歯は実用には不向きであるようだったが、私はだんぜんこれを離さなかった。マント(松本の知人に貰ったものであった)も手離さなかった。これこそ世俗を越えた高校生の象徴であり、たとえいくらひっくり返ろうと、内心の高揚した満足感には代えられないのであった。しかし、多摩川に行ったときも、私は胸をはって土手を降りようとして、やはりものの見事にひっくり返り、鼻緒を切った。
 人間、内容もないのに得意になるとこういう目に会う。その冬、私はなんだか外出するたびに、一々ひっくり返ってばかりいたような気さえする。