『ペットが死について知っていること』
ジェフリー・M・マッソン 著 青樹玲 訳 草思社 2021年10月
私事ですが、昨年10月に最愛の息子(猫・享年9歳2か月)を亡くしました。とてもやんちゃなくせに、ヘタレで甘えん坊で彼が「猫」という種を超えて、私にとっては間違いなく我が家の長男でした。3年に渡る闘病生活を送り、私も介護の日々でしたが、息子と過ごした時間はとてもかけがえのないものでした。そのため、彼が旅立ったことが未だに信じられないというのが本当のところです。彼を失ってから、彼にしてあげたことは本当に正しかったのか、もっとしてあげられることがあったのではと今でも考えてしまいます。そのような中でたまたま新聞の書評欄で紹介されていたのが本書です。
著者は精神分析学を学び、1990年代から動物の感情的生態について研究しており、本書以外にも数々の動物の感情に関する著書を多く出しています。その著者が本書の冒頭で、とある動画を観て涙が止まらなかったと記しています。それは病に侵され何も受け付けなくただ横たわっていたチンパンジーが唯一心を許した研究員と再会した時、体を起こして彼にずっと撫でてもらうことで穏やか時を過ごしたという動画でした。このことから、「なぜ人は種の境界を超えた愛を見ると、泣きたくなるのか(p12)」という問いを投げかけてきます。そして、すぐにその解として「それは私たちが太古の昔から、異なる種とつながりたいと深く焦がれてきたからだろう(p12)」と綴っています。しかしながら、この研究に関しては意見が分かれるところで十分に探究されていません。それでも、著者は生き物を最も理解する時は死に際した時だとし、本書ではその事例を多く取り上げています。そして、その結果として著者は、動物は死を理解し、その際には、人から離れて死に向かうのか、家族の中で見つめられて最期を迎えるのか、そこまで考えていると言うのです。それでも著者は動物たちが最期を迎える時にいちばん大切なことは、家族がそばにいてあげることなのだと断言しています。
正直、本書を読んで自分自身の問いに対しては全く解決しませんでした。確かに息子は死を理解していたような気がします。私たち家族がそろっている時間を選び、娘の腕の中で最期を迎えました。そのタイミングは後にカレンダーを見返しても天晴としか言いようのないものでした。そういう意味では著者の断言通りです。しかし私が知りたいことはそこに至るまでの息子の気持ちであり、思いです。それまでに、もし息子がネガティブな感情をもってあきらめの「死」への理解だったとしたら、家族にとっては後悔しかありません。ただ、息子は人間の言葉を話すことができません。それを推し量っても何とか彼の気持ちに寄り添うことができていたのか、そうでなかったのか、そのヒントというのは残念ながら本書では見つかりませんでした。
しかし、新たな発見というのはありました。本書はもともとアメリカで発行されたものです。そのため事例はもちろんアメリカをはじめとした海外のものです。日本でのことは含まれていません。そうなると、動物たちの死の間際が日本の状況とは異なってきます。これらの多くが、ペットを安楽死させるタイミングについて語られているのです。日本でも末期がんで痛み止めが全く効かずに、のたうち回るだけのペットに対して家族が安楽死を選択するという話はしばし耳にしますが、あまり公にはされませんし、恐らくまだ少数派ではないでしょうか。しかし、ここでの事例ではそのタイミングに対して苦悩する家族の様子が多く記されているのです。死をどのように捉えるかというのはその国の文化や歴史に大きく反映されるので、どれが正解というものではないと思います。安楽死を選択するにしても、家族の葛藤は果てしなく大きいのは間違いないことですから。そのように、海外の「死」に対する動物福祉・医療について本書から知ることとなりました。その点で本書を手にしたことはよかったですし、何よりも息子がうちの子になってから学んだ動物福祉・医療。この本への出会いはそのタイミングからも、息子からの最後のギフトではなかったのかと思っています。
文責 木村綾子