もみさんの一日一冊遊書録( 2011年9月1日 スタート!: メメント・モリ ) ~たゆたえど沈まず~

年とともに人生はクロノロジー(年代記)からパースペクティブ(遠近法)になり、最後は一枚のピクチュア(絵)になる

150215 衆参両院の「テロ非難決議」を非難する!「テロの本質」を真面目に語る政治家はいないのか!

 真面目に「テロの本質」を考えれば、その原因が、決して宗教の違いにあるのではなく、世界的に広がる富の偏在、極端な格差拡大、差別構造の継承、及びパレスチナ問題、それらによる<若者たちの絶望>にあることは、実は誰もがわかっていることだろう! それを「世界には凶悪なテロリストが大勢いて、こいつらを叩き潰せばテロが無くなる」なんて話に無理やりすり替えている。誰も、「テロの本質が、日本・世界の社会構造が抱える富の偏在・格差の拡大及びパレスチナ問題の<野放し状態>にこそある」という本質を語らないし、見させようとしない。そして、凶悪なテロリストへの恐怖ばかりを煽りたてている。これはまさにオーウェルの「一九八四年」の世界と同じだ。今回の国会の「テロ非難決議」に社民党・共産党まで加わっていたのには、あきれ果てた。「誰も本質を見ようとしない。」「武力で世界中の<絶望した若者たち>を封じ込めるべきではないし、不可能だ!」

秋原葉月さん「Afternoon Cafe」ブログから

※(1)「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは、つねに簡単なことだ。とても単純だ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険にさらしていると主張する以外には、何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ」byヘルマン・ゲーリング ※(2)いつの時代も大衆をファシズムに煽動する手口は同じ。なのに同じ手口に何度も騙されるのは過去に学んでいないから。格差を広げ、セイフティネットを破壊し、冷徹な自己責任論が横行する社会を継続させるのは簡単だ。今よりもっと格差を広げ、セイフティネットを破壊する政策をとればよい。そうすれば人々に自己責任論がもっと浸透し、草の根から勝手に右傾化してくれる。

辺見庸さんのブログから

・権力をあまりに人格的にとらえるのはどうかとおもう。口にするのもおぞましいドブの目をしたあの男を、ヒステリックに名指しでののしれば、反権力的そぶりになるとかんがえるのは、ドブの目をしたあの男とあまり変わらない、低い知性のあらわれである。権力の空間は、じつのところ、非人格的なのだ。だからてごわい。中心はドブの目をしたあの男=安倍晋三であるかにみえて、そうではない。ドブの目をしたあの男はひとつの(倒錯的な)社会心理学的な表象ではありえても、それを斃せば事態が革命的に変化するようなシロモノではない。権力には固定的な中心はなく、かくじつに「われわれ」をふくむ周縁があるだけだ。ドブの目をしたあの男は、陋劣な知性とふるまいで「われわれ」をいらだたせ、怒らせるとともに、「われわれ」をして社会心理学的に(かれを)蔑視せしめ、またそのことにより、「われわれ」が「われわれ」であることに無意識に満足もさせているのかもしれない。ところで、「われわれ」の内面には、濃淡の差こそあれ、ドブの目をしたあの男の貧寒とした影が棲んでいるのだ。戦争は、むろん、そう遠くない。そう切実にかんじられるかどうか。いざ戦争がはじまったら、反戦運動が愛国運動化する公算が大である。そう切実に予感できるかどうか。研ぎすまされた感性がいる。せむしの侏儒との「ふるいつきあい」がベンヤミンのなにかを決定した。そう直観できたアレントほどするどくはなくても、研ぎすまされた感性がいる。けふコビトがきた。ミスドにいった。(2015/11/11)

0038 斎藤環/山登敬之「世界一やさしい精神科の本」(河出書房新社;2011) 感想3+

2013年03月10日 01時57分00秒 | 一日一冊読書開始
3月9日(土):

226ページ   所要時間2:20        図書館

習慣維持のための流し読み。

斎藤環50歳(1961生まれ)/山登敬之54歳(1957生まれ)。両名とも精神科医。14歳の世渡り術シリーズのひとつ。中高生向けに過不足なく書かれている。悪くはないが、内容に深みが無いので充足感は少ない。

*「心の病」にはいろんな形があるけど、それがすなわち「多様性」ってわけじゃない。その形からみえてくるのは、むしろ人の心の限界、人の心の不自由さなんだよね。略。精神医学を知ることは、不自由さを通じて「人の多様性」を肯定することにつながるんじゃないか。

【目次】

第1章 みんなのように上手にできない―「発達障害」について
*スペクトラムというのは「連続体」って意味。
*サヴァン症候群のサヴァンは「学がある」(仏語)の意。

第2章 人とつながってさえいれば―「ひきこもり」について
*元気になれるよう「かまい」ながら休ませる。
*日本にひきこもりが多いのは、家族が支えてるから。
*徴兵制のある韓国では、兵役から帰った若者がひきこもるケースが多い。
「人」が一番の薬→人間関係が無くなると「生きる意味」すらも見えなくなる。どんな形でも人とつながってさえいれば、ひきこもりはこじれずにすむ。「誰にも頼らない強さ」なんかよりも「時には人に甘えられる強さ」の方を大切にしてほしい。

第3章 人づきあいが苦手なんです―「対人恐怖/社会不安障害」について
*実は対人恐怖の人って、他人にはそんなに関心がない人が多い。略。他人のことを「鏡」にしているので、他人の目に映る自分の姿はとても気になるけれど、他人がどんな姿をしているかはよくわからない。けっこう自己中心的な人と言える。
*「教室内身分制」「スクールカースト」は3~4階層ある。最下層はオタク、最上層はヤンキー。

第4章 やめられない止まらない―「摂食障害」について
*母と娘の難しさは、男にはなかなかわからない。
*「強迫」→「強いとらわれ」

第5章 自分がバラバラになっていく―「解離」について
*ショックを和らげる二つの方法=「抑圧」と「解離」
*解離の治療:先ずリーダー格の人格を探す。必ずしもホスト人格とは限らない。すごくイライラしている攻撃的・暴力的人格が必ず一人いるので、早めに会って「あなたの人格を尊重します」と約束する。
次に、他の人格を消すのではなく、みんなを平等に扱い、みんなの記憶や感じていることを一つに統合していくことを目標として示す。消していくのと、まとめるのでは全く違う。心の壁を無くせなくても、その壁を薄くできればよい、と考える。

第6章 トラウマは心のどこにある?―「PTSD」について
*トラウマの治療も、結局、新しい良好な人との出会いでつらい経験を上書きしていくしかない。
*トラウマで、ひきこもりは最悪。出会いが起こらないので、生傷を生傷のまま放置することになる。そして、心の傷はかきむしらずにいられない。
*トラウマの治療法で、つらい経験を繰り返し思い出すプロロングド・エクスプロージャー(暴露)という荒療治がある。

第7章 「困った人」とどうつきあう?―「人格障害」について
*境界性人格障害は「不安定のなかの安定」というぐらいものすごく不安定な人である。
*自分の空虚さを埋めるために「人中毒」と言っていいぐらいに次々と付き合う相手を変えていく。
*「下種の勘ぐり」=自分が相手に怒ってる時はまるで相手が自分に怒っているように勘違いしてしまいやすい。
*境界性人格障害の作品→「ライ麦畑でつかまえて」(サリンジャー)、「人間失格」(太宰治)、「新世紀エヴァンゲリオン」

第8章 なぜか体が動かない―「うつ病」について

第9章 意外に身近な心の病―「統合失調症」について
*「精神分裂病」から「統合失調症」に病名変更したのは2002年。
*当り前のことがよくわからなくなる。周りの世界がいつもと違って感じられる。自分の存在自体も不確かなものになってくる。
*本人にしたら、自分よりも世界の方が「どうしちゃったんだろう…」状態だから、常に周囲に警戒して疑り深くなっている。端から見ても独特の緊張感が感じられる。妄想や幻覚といった不思議な体験も、よく見られる症状だ。たとえば、悪の組織が自分の命を狙ってつけまわしているとか、インターネットが自分の個人情報を世界中に配信しているとか。「危なくて外になんか出られない」ってところで、ひきこもりにつながる。


※知り合いの女性に、冤罪の裁判闘争に敗北して精神に不調をきたしている人がいる。長年の心労と不条理感のために重度の統合失調症になっている。なんとかしてあげたいが、専門家でもない俺が、軽率に診療科に受診を勧めることはできない。激しい反発を受けるのだ。正直つらい、心を痛めている。

0037 井上ひさしほか 文学の蔵編「井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室」(新潮文庫;1998) 感想5

2013年03月07日 21時41分27秒 | 一日一冊読書開始
3月7日(木):

274ページ  所要時間3:10      図書館

62歳の井上ひさし(1934~2010)によって岩手県一関市で、1996(平成8)年に開かれた三日間の「作文教室」の講義録を関係者が編集し直した本だ。

井上ひさしは、「文豪」である。本書は、抽象的観念論を排して、具体的方法論を説く。しかし、それが高い精神性にもつながっている。文章論として繰り返し読むべき実践的テキスト

*文章は、本当に書きたいことを書く。よくよく自分を見つめ直す。
*一番大事なことは、自分にしか書けないことを、だれにでもわかる文章で書くということ。
*自分を研究して自分がいちばん大事に思っていること、辛いと思っていること、嬉しいと思っていることを書く→漱石の「自己本位」の発見!
*読者の長期記憶を利用すること。
*短期記憶への配慮が重要である。そのために文章は短く切ること。むやみやたらに接続詞を使わない。
*優れた文章書きは、なるべく小さく千切ったものを、相手に次々に提供していく。
*段落分けは、自分だけでなく、読者のリズムにとっても大切。
*一人称は、できるだけカットする。
*作文の題が決まれば3分の1できたのと同じ。
*いきなり核心から始める。削れる表現は徹底的に削る。
*字引き・辞書を常用することが大事である。
*「理屈を連れてくる」接続助詞というものは、下手に使うと苦労するだけです。
*「誠実さ」「明晰さ」「わかりやすさ」―これが文章では大事なことです。
*考えて、考え抜いて、もうこれならどこからでも書ける、というところまでちゃんとやったうえで、いったんそれを脇に置いて、スーッと書きはじめる。
「黒い目のきれいな女の子」とは。
「象は鼻が長い」で「は」と「が」の違いを説明。対象に対して「は」は既知、「が」は未知、の時に使う。
*400字詰め原稿用紙の使い方。

四時間目(第4章)は「作文教室」参加者の作品に対する添削・講評コーナーである。参加者の「作文」は一つとして同様なものが無く、いずれも見事な文章と内容であった。各作品に対する著者のアドバイスの適切さと作者たちの思いや人生・経験に対する敬意の払い方は非常に行き届いたものだった。著者の人柄として、寛容さと誠心誠意さを感じた。「恩返し」の代わりの「恩送り」の思想が素敵だ。

0036 和田秀樹「受験勉強の技術」(講談社現代新書;2005) 感想4

2013年03月05日 01時51分16秒 | 一日一冊読書開始
3月4日(月):

205ページ  所要時間2:40          蔵書

著者45歳(1960生まれ)。灘高から東京大学医学部卒。精神科医。受験・教育評論家? 

仏教のひろさちやと並んで、教育・受験分野ではずうっとある種の不潔感に近い違和感を持って敬遠してきた評論家である。聖なる知識を売って、金に換えて稼いでいる売文屋みたいな感じで見ていたのだ。

しかし、実際に読んでみると、さすがに東大理Ⅲ合格の<頭の良い人間>であることは認めざるを得なくなった。内容が分かりやすいのと役に立つ、納得させられる実(じつ)がたくさん盛り込まれているのだ。

受験勉強が、実際には「地獄」ではなかったし、大きな効用があったことを解き明かし、悪者扱いをされている受験競争こそが日本の繁栄を支えてきたのだと指摘する。その上で、当時本格的に害悪を出しはじめていた<ゆとり教育>に対して真っ向から反対姿勢を示している。これは、8年後の今から見ても、至極真っ当な指摘である。

曾野綾子バカの「社会に出て二次方程式を使ったことが無い」発言を受けて、夫で教育課程審議会会長の三浦朱門バカが、ゆとり教育のカリキュラムで、中学校の教科書から二次方程式の解の公式を消したことに憤っている。勉強が役に立つかどうかで考えるのは非常に矮小な議論であると断罪している。ちなみに、曽野と三浦のバカには、格差社会を助長・促進するもっとひどい発言が存在する

※俺には、どうしても許せない男がいる。元文部官僚として<ゆとり教育>推進の中心になった男が、現在何の恥も無くマスコミ、メディアに堂々と出てきて偉そうに教育を語っている寺脇研である。この男が日本の教育を歪めた罪は万死に値するはずなのに、いつも言い逃れをして自らの非を決して認めることが無くて、勿論謝罪も無く、恬として公共の場で語っている姿に、「官僚」というものの恥知らずな本質を見る思いがするのだ

著者の議論や勉強の方法論は、実際に読んでみると、どれも無理が無く、抑制の利いた説得力を持っている。読み返して活用したい、と思わされる箇所がたくさん有った。偏見かもしれないが、受験勉強・教育・心理学に偏って膨大な量の著作を持っていて、恐らく内容的に重複したところを持っているんだろうな…、という思いが、著者への胡散臭い違和感につながっているのだったが、実際に手に取った本書の内容は、高校生が読んでも、保護者が読んでも、教師が読んでもかなり実のある内容になっているのも確かである。

本書の内容は、実(じつ)のある内容がたくさんあるので、逐一紹介する時間は無いが、なかなかの良書として推奨する!

目次:
序章 学力低下に歯止めをかける
第1章 受験勉強の神話を問い直す
第2章 受験勉強のやり方
第3章 受験勉強で身につく能力
第4章 受験勉強で身につけた能力をどう活用するか
第5章 大人のための受験勉強、生涯学習法

130303-2  本日は「とんび」デーでした。

2013年03月03日 19時05分39秒 | 日記
3月3日(日):

今日は、午後2時まで寝ていて起床。よく寝られたのも儲けものである。パソコンの画面を開きながら、DVDに録画された「とんび」の1話~5話(海雲和尚の死)までを見始めて止まらなくなった。横目で全部観てしまった。

気持ちがいいほど涙が流れ続けた。見れば見るほど丁寧に作られた作品である。

前に載せた「知には記憶があるが、情には記憶が無い。だから、赤ちゃんは何度見ても可愛いし、落語は何度聞いても同じ所で笑えて可笑しいのだ」という話をネットで調べたが、やっぱり桂枝雀師の言葉だった。

出演者すべてが素晴らしい。それを一緒に作り上げているスタッフの心意気も十二分に伝わってくる。丁寧に読者や視聴者と向き合えば、こんなに気持ちよく泣けるドラマが作れるんだ、と再認識できた。

第4話で旭の母の死を、自分の所為だとウソをつき通したやすが、友の照雲から「秘すれば花で伝わったらいいよね」と言われて、「それはねえなあ、だいたい伝わったら自動的に嘘だってばれちまうじゃねえか」「(旭からどう思われたって)なんかもういいやあ…俺…、旭が笑っていてくれたらどうだって…」微妙なニュアンスは、本当に丁寧に作り込まないと滑ってしまうが、このドラマでは、そういう良いシーンが繰り返し出てくる。

エンディングの福山雅治「誕生日には真白な百合を」の歌もすごくしっくりと胸に届いてくる。

今晩の放送も楽しみだ。

130303 河上肇の評価は、中国共産党も含めた東アジア全体の近代史の中で捉えなおすべし!

2013年03月03日 14時35分54秒 | 日記
※3月3日(日):

先日立ち読みした本に「河上肇の道義的マルクス主義の教えは、同時並行的に中国語訳が進められ、一方で中国からの留学生たちによって中国へ輸出されている。現代の中国共産党にも河上肇の教えは濃厚に入っている<河上肇の評価>は、日本近代史という狭い枠組みを脱して、東アジア全体の近代史の中で捉えなおすべきだ」という旨が書かれていた。そう言えば、毛沢東が河上肇の著作を愛読していたという話も聞いたことがあるよな。



※下の論文は、キーワード検索で出てきた。著作権に触れるようであれば消します。


課程博士学位請求論文『河上肇研究―日中経済思想交流史からの考察』概要
早稲田大学大学院経済学研究科博士後期課程2003年3月退学
                      日本学術振興会特別研究員 三田剛史

序章では、先行研究を検討し本研究の意義と方向性を打ち出した。総じて従来の河上肇研究は、日本における先駆的なマルクス経済学者として、あるいは実践に敗れ志半ばで倒れた求道者として、一人の人間を描くことにほぼ終始しており、河上肇の思想的脊梁を描出するとともに中国への影響まで含めて歴史的位置付けを行うような研究はまだ現れていない。序章で打ち出した本稿に於ける河上肇研究の方向性は、次の二つである。一つは、河上肇の全生涯にわたる著作を読み解くことによって、河上肇の思想的基底とその思想・学問の独創性を見抜くことである。もう一つは、河上肇が中国に如何なる影響を与えていたのかを検討し、日本近代だけでなく日中経済思想交流史ひいては東アジアの観点から河上肇を再考することである。前者は第Ⅰ部(第一~四章)、後者は第Ⅱ部(第五、六章)と終章に具体化した。

第一章では、河上肇の経済学探究について考察した。河上肇の経済学探究の道程は、東大で講じられていた国家学の摂取と、徳川期の経済思想研究から始まった。徳川期経済思想研究では、日本近世の思想家が近代的ともいうべき経済把握や政策提言を行っていたことを明らかにする反面、逆井孝仁の指摘する通り「道徳と経済の調和」ないし道徳のための経済という経世家の基本的視角を学んでいったと考えられる。また、徳川期の経済思想が中国古典を重視していることに鑑み、自身も中国古典から経済思想を読み取っていった。イギリスの古典派を中心とする自由主義経済学については、克服すべき個人主義の経済学という見方をとり、人道主義と社会主義の経済学を志向した。さらに、マルクス主義から学びつつ中国古典からも見出した唯物史観にのっとって社会組織の改造を重視するため、河上肇は社会主義の経済学を主張するようになっていった。

第二章では、河上肇のマルクス主義受容の過程を検証した。河上肇のマルクス主義との接触は、1904年にセーリグマンの『新史観―歴史の経済的説明』を翻訳上梓したことに始まる。同書によって河上肇は「経済的条件が倫理的観念を左右する」という唯物史観を見出し、マルクスが提唱したものであることを認識しつつも社会主義とは切り離して理解していた。以後河上肇は、唯物史観ないし経済史観に基づく論説を発表していくが、河上肇が唯物史観を受容した背景には、中国古典で「恒産なくんば拠って恒心なし」などと表現される道徳のために経済を確保するという思想への傾倒があった。唯物史観と社会主義は、河上肇の知的営為の中で長らく別々に扱われてきた。しかし、レーニンの『国家と革命』などを通じてマルクス=レーニン主義とロシア革命の研究を進めていくと、いわば先覚者が先導する社会組織の改造としての社会主義革命を志向するようになり、河上肇はマルクス=レーニン主義に傾斜していった。また、弁証法的唯物論の習得を契機に実践者への道を歩み始めた。

第三章では、河上肇の思想的営為を貫く脊梁、ないし思想的基底を明らかにするため、河上肇のいう「道学」について探究した。青年時代から晩年に至るまで、河上肇の学的・思想的営為において一貫しているのは、科学ないし社会科学によって抽象化することのできない人間の精神的範疇を、学的体系に取り込む姿勢である。このような人間の精神的範疇を追究することを、河上肇は「真個の心学」ないし「道学」と表現した。「道学」によって河上肇が追究しようとしたのが、「道」ないし「宗教的真理」である。「道」とは結局、理想社会を形成しようとする人間に必要な道徳や信念であったといえよう。

第四章では、マルクス=レーニン主義に傾斜してからの河上肇の思想にも含まれていた独創性を抽出するため、その労働観に着目した。河上肇の労働観の特徴が「労働の遊戯化」にあることは、杉原四郎によって早くから指摘されていた。本稿では、杉原の所説よりさらに踏み込んで、マルクス=レーニン主義への傾斜の前後で河上肇のいう「労働の遊戯化」概念の内容に変化があったことを指摘し、疎外からの解放、社会のための剰余価値生産と消費の享受という観点から共産主義社会における遊戯化された労働を展望していたことを論じた。

第五章では、書誌的観点から河上肇の著作の中国語訳の実態を究明した。河上肇のどの著作がいつ中国語訳されたかということに関しては、一海知義と米浜泰英の研究蓄積があり、本稿もこれを全面的に参照した。本稿においては、先行研究で見落とされていた中国語訳を新たに見出しただけでなく、翻訳者が如何なる人物であったのかについても調査を行い、日本留学歴や河上肇との関係をできるだけ明らかにした。また、同時代の中国での出版物に於ける河上肇の翻訳書の位置付けを確認するため、清末から人民共和国成立までに中国で出版された社会科学書で、河上肇の著作が占める割合を検証した。これは日中両国を通じてもおそらく初の試みである。

第六章では、第五章で明らかにした河上肇の中国への影響の書誌的検証を基礎に、主に
河上肇と中国知識人との人的関係と、学的・思想的影響関係について一定の考察を行った。河上肇の近代中国知識人への影響については、後藤延子、楊奎松らによる李大への影響の研究以外、具体的言及が全く為されてこなかったが、本稿では漆樹芬、毛沢東、王学文のマルクス主義摂取と河上肇との関わりについて、初歩的ながら論及した。李大についても、新村運動やラスキンへの関心という新たな観点から、河上肇との共通性を論じた。

終章においては、河上肇の歴史的位置付けを行った。20世紀初頭の日本において、官学としての国家学的経済学と経世家の視角を出発点として経済学探究を開始し、社会問題顕在化の中で自由主義経済学を克服すべき個人主義の経済学として退け、社会主義への志向を明確にした。ロシア革命とコミンテルンの圧倒的影響の下で、マルクス=レーニン主義に傾斜していった河上肇は、思想的伝統を背負った知識人がマルクス主義者へと転化していく過程を中国の知識人に対しても示した。

河上肇の思想的基底を「道学」と規定し、中国古典に由来する思想的伝統の影響を受けつつ、逆に近代中国に影響を与えたという河上肇の全体像を描出したのは、本稿(ないし本稿の基礎となった拙著『甦る河上肇―近代中国の知の源泉』〈藤原書店、2003年1月〉)が初めてであると考えられる。本稿ではさらに、河上肇はなぜマルクス=レーニン主義を受容したのか、河上肇はなぜ中国知識人のマルクス=レーニン主義受容の媒介となり得たのかという問題の思想的原因を、中国古典に由来する思想的伝統に求めた。またそれが革命やプロレタリアート独裁を、河上肇がほとんど無批判に支持することになった理由でもあったことに触れた。そして、河上肇の思想的営為とその影響が日中経済思想交流史に明確に位置づけられることを明らかにした。

0035 衿野未矢「「子どもを産まない」という選択」(講談社;2011) 感想4

2013年03月03日 01時27分10秒 | 一日一冊読書開始
3月2日(土):

206ページ  所要時間2:20        図書館

著者48歳(1963生まれ)。女性関係のルポライター。バツ1、独身、未産かつ出産願望あり。「子どもを生む努力をするべきだった?/私はまだ妊娠できる?」という著者自身の強い思い(前向き、後悔、喪失感…?)を動機として書かれた。未産を中心に、既産、離婚などさまざまな状況の女性たちに事情や率直な思いについて取材を重ねた内容である。

あくまでも聴き取りを主としたレポート集であり、厳密な裏付けのある内容ではない。ただ俺は、「好著だ!」と思っている。感想4も前向きな評価をしたつもりである。理由は、この取材と著作活動が、著者自身の人生の問題解決を目指して行なわれているので、種々多様な女性たちの生き様が取材されているが内容の軸がぶれていないからだと思う。

48歳で妊娠・出産・育児への意志を持ち得ている著者には多少の驚きを覚えるが、「やはり(自分の人生の中で)自分の子供が欲しい」という願いは人間にとって本然的なものであるからこそ、ぶれることも無いし、羨みを隠すことも無いし、悲観し過ぎることもない。ありのままの思いが素直に表現されているのだ。

*「「子どものいない人生を、あなたはどう受け止めていますか?」という、最初の一言を切り出すのには、勇気と覚悟がいる。聞かれた側も、まずは引く。略。しかし、いったん語り出すと、饒舌になる女性は少なくなかった。略。「未産である」ことの語り合いを通じて、また新たな絆で結ばれたと実感することもたびたびあった。」194ページ

*むかしはDINKS(ディンクス;ダブル・インカム・ノー・キッズ)が、もてはやされたが、今は母でありつつ、仕事をバリバリこなし、週末を子どもと楽しむ女性が羨ましがられる。

*夫婦、特に女性が妊娠・出産を決意する要因に経済力・貧困が如何に大きい問題なのかがわかる。離婚して子どもを育てる母親の経済的苦労は並大抵ではない。

*SNSではシングルマザー関連のコミュニティが大盛況。

*女性にとって女性が味方とは限らない。特に未産、既産の間にはそれなりの溝がある。

人工授精は健康保険が適用されず、全額が自己負担で、現在でも1回1万円から3万円程である。成功率は10%前後と言われ、しかも回を重ねるごとに下がっていくため、チャレンジは10回ほどが目安とされている。略体外受精を行うには、30万円から50万円程かかる。市町村から助成金が出る場合もあるものの、最低でも10万円以上の出費は必要だ。事前に排卵誘発剤などの注射を受け、全身麻酔をして採卵をするため、卵巣に腫れなどが起きる。だからすぐには移植できず、卵子を凍結して待機することになる。凍結するのにも、レーザー線を当てるなどの加工をほどこすのにも、また費用がかかる。凍結卵を移植したあとも、着床しやすくするため黄体ホルモン等の投薬が必要だ。「人工授精ですら、こんなにクタクタなのに、体外受精なんて、とても無理でした。妊娠できたとしても、出産、育児と、突っ走っていくパワーは残っていないと思いました」53・54ページ。

*2010年、50歳男性の未婚率は19.4%である。これは、女性の「産める環境」の大きな侵害である。

*高齢の男性には「液への誤解」がある。つまり、射精できれば生殖能力があると勘違いしている。精液にも不妊につながる老化や精子の量・質の問題が生じていることが多い。

*「子どもを産めば一人ぼっちじゃなくなる?つまり子供を『1人』とカウントするわけですか? それは間違いです。子供は、一人前の人間じゃない。略。子育ては孤独ですよ。一人でいるときよりも、もっと深い孤独です」156ページ

子どもを持てないことを深刻に思い詰めてると、気付かないが、子どもを持てば別の多くの苦しみがある。同時に「こいつらのためなら死ねる」という確かな存在を持つことにもなる。子供の有無を嘆くことも有って当然だが、比較の問題にはならない。

【目次】
第1章 私に子供がいない理由
第2章 思い切って聞いてみた
第3章 社会の変化にとまどう
第4章 男の「女性問題」
第5章 私でも育てられる?
第6章 未産予備軍の女たち
第7章 最初の一言

【帯文】:産んでいなくたっていいじゃない! 「結婚、妊娠、出産、育児」を巡る、女性たちの心の葛藤と人生の選択。
M58歳未婚「キャリアを重ねて、子どもを産まずにすんだことに誇りを感じています」/T52歳既婚「不育症で3回流産しました。今なら産めたかもしれないのがつらい」/F56歳既婚「人工授精8回失敗、体外受精の気力は尽きていました」/N41歳既婚「卵巣に問題。「私がなぜ?」と頭が真っ白になりました」/R48歳既婚「もっと積極的に不妊治療を受ければよかったのかなあ…」/T49歳未婚「お局様になって会社に居残ろうときめました」

0034 重松清「娘に語るお父さんの歴史」(ちくまプリマー新書;2006) 感想4

2013年03月02日 01時46分21秒 | 一日一冊読書開始
3月1日(土):

173ページ  所要時間2:00       図書館

著者43歳(1963生まれ)。著者は、現代日本の良識・良心(決して肩肘張った感じではないが…)を代表する作家だと思う。一見すると、眼差しが丁寧過ぎて、動きが遅い感じを受けるのだが、確実に言うべきことは言っているし、議論も踏み込んで前進している。そして、読者は心の機微を丁寧に掬い取られてることに気付くのだ。感想4は単に、内容の量に対する評価であって質的には5である。

俺は、日曜夜9:00のTBS「とんび」にはまっている。録画してるので何回でも見られる! えへん!ぷい! そして見るたびに毎回、涙腺が決壊して、気持ちのよい涙を流している。同じシーンでも泣ける。前に知には記憶があるが、情には記憶が無い。だから、赤ちゃんは何度見ても可愛いし、落語は何度聞いても同じ所で笑えて可笑しいのだ」という話(桂枝雀師だったか?)を聞いたことがあるが、このドラマも、役者とスタッフが素晴らしいのは、勿論だがやはり原作者の重松清が人間の感情の機微を捉えるのが上手いのだ。だから、泣ける。気持ちよく泣ける。例えば、やすの旭への手紙のたどたどしい「拝啓」の文字を見ただけで涙腺は決壊するのだ。

しかも、実は、俺は、NHK版の「とんび」の録画を秘蔵していて、まだ観ていないのだ。こっちは堤真一主演である! TBS版「とんび」を堪能してから、改めてNHK版で楽しめるのである! 羨ましいでしょう!って、俺は誰に自慢してるのかな…。<酔>

本書は、娘二人を持つ著者が、自分の家庭と完全に重ね合わせ、15歳の娘との対話で著者の子供時代を見直す、という形で展開する。月並みな表現だが、重松清版の「三丁目の夕日」と言える。そして、随所に著者の感性豊かな社会の見方が展開されていて、著者の感性への共感が深まり、自らの知が耕されていくのを覚えるのである。

*圧倒的な多数派の「ふつう」は、「ふつう」の枠に入らない人たちに対して、往々にして鈍感になってしまう。略。「排除」のための「理解」なんて、そんな寂しいことがあるか……。67・68ページ

*「福祉」とは国民が当然受けるべき権利なのだ。なんの負い目も要らないし、へりくだる必要もない。なのに、現実の「福祉」は、「上」や「中」から「下」へのほどこしめいたイメージになってしまう。74ページ

*「かわいそう」の発想でやってるかぎり、ほんとうの福祉はできないよな。89ページ

*(ウルトラマンや仮面ライダーが)「桃太郎」タイプの物語だったとしたら、その活躍に胸をときめかせた子供たちは、どんなオトナになっただろう。ウルトラマンも仮面ライダーも、決して先制攻撃はしない。ましてや奇襲不意打ちなどは、頭の片隅をちらりともよぎることはないだろう。116ページ

*「いまがたとえ不幸でも、未来には幸せが待ってると思えるなら、その時代は幸せなんだよ。つまり、未来が幸せだと信じることができる時代は、幸せなんだ」だから―。「子どもは、未来なんだ。未来を生きるのが子供の役目だ。未来が幸せだと信じることは、子どもが幸せになると信じることでもあるんだよ」カズアキはもう一度、さっきよりさらにきっぱりとした口調で、言った。「お父さんは、幸せな時代に生まれたんだと思う」156ページ

*もう死んでしまいたいと思うことだって何度かあるだろう。でも死ぬな。生きることもあきらめるな。急がなくてもいいから、いつか、オトナになれ。オトナになったら、幸せが増える。幸せに勝ち負けを求めなくなり、幸せの数を増やすことができるのが、オトナだ。どうだ、オトナってけっこういいだろう……と、オトナになったからわかるのだ。169ページ

【目次】
序章  お父さんだって、昔は子どもだった
第1章 子どもたちはテレビとともに育った
第2章 子どもたちは「パパとママ」に育てられた
第3章 子どもたちは「ふつう」を期待されていた
第4章 子どもたちは、小さな「正義の味方」だった
第5章 子どもたちは「未来」を夢見ていた
エピローグ きみたちがオトナになる日のために

150329 タガ外せば歯止め失う 長谷部恭男・早稲田大学教授/「未来志向」は現実逃避 杉田敦・法政大学教授

 杉田 先日ドイツのメルケル首相が来日しました。戦後ドイツも様々な問題を抱えていますが、過去への反省と謝罪という「建前」を大切にし続けることで、国際的に発言力を強めてきた経緯がある。「建前」がソフトパワーにつながることを安倍さんたちは理解しているのでしょうか。  / /長谷部 そもそも談話が扱っているのは、学問的な歴史の問題ではなく、人々の情念が絡まる記憶の問題です。記念碑や記念館、映画に結実するもので、証拠の有無や正確性をいくら詰めても、決着はつかない。厳密な歴史のレベルで、仮に日本側が中国や韓国の主張に反証できたとしても、問題はむしろこじれる。相手を論破して済む話ではないから、お互いがなんとか折り合いのつく範囲内に収めようと政治的な判断をした。それが河野談話です。  / /杉田 談話の方向性や近隣との外交について「未来志向」という言い方がよくされますが、意図はどうあれ、それが過去の軽視という「見かけ」をもってしまえば、負の効果は計り知れない。安倍さんたちは、未来を向いて過去を振り払えば、政治的な自由度が高まると思っているのかもしれません。しかし政治の存在意義は様々な制約を踏まえつつ、何とか解を見いだしていくところにあります。政治的な閉塞(へいそく)感が強まる中で、自らに課せられているタガを外そうという動きが出てくる。しかし、それで万事うまくいくというのは、一種の現実逃避では。  / /長谷部 合理的な自己拘束という概念が吹っ飛んでしまっている印象です。縛られることによってより力を発揮できることがある。俳句は5・7・5と型が決まっているからこそ発想力が鍛えられる。しかし安倍さんたちは選挙に勝った自分たちは何にも縛られない、「建前」も法律も憲法解釈もすべて操作できると考えているようです。  / /杉田 俳句は好きな字数でよめばいいのだと。  / /長谷部 あらゆるタガをはずせば、短期的には楽になるかもしれません。しかし、次に政権が交代したとき、自分たちが時の政府を踏みとどまらせる歯止めもなくなる。外国の要求を、憲法の拘束があるからと断ることもできない。最後の最後、ここぞという時のよりどころが失われてしまう。その怖さを、安倍さんたちは自覚すべきです。 =敬称略(構成・高橋純子)朝日新聞『考論』

0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5

以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:///  オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。///  「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。///  「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。(160626:イギリスEU離脱について思うところ=もみ=)