5月1日(日):
朝日新聞なのに?、良い記事を読むことができた。
アイヒマン曽我豪のような小役人の宦官ダニ記者を飼ってることで購読者を侮り見下し、購読者の誇りを踏みにじり続けている朝日新聞だが、本来のジャーナリズムを感じさせる記者もいる。
その一人が高橋純子記者だ。以前から、長谷部恭男・早稲田大学教授と杉田敦・法政大学教授の朝日新聞『考論』の構成者として名を知っていた高橋純子記者の肉声を初めて聞いた。この文章には、曽我豪のような卑しさは微塵も無い。別に誉めるほどの内容ではない。ただあるべきジャーナリズム精神を感じるというだけだ。当たり前であることが難しい時代になったということだ。それでも貫いてほしい。
朝日デジタル:(政治断簡)スイッチ押したの、誰だ? 政治部次長・高橋純子 2016年5月1日05時00分
「だけどみんな違う。クズだけど、それぞれ違うクズなんだから『ゆとり』なんて言葉でくくらないでください」
衆院北海道5区補選で自民党公認候補当選確実の報に触れ、そっか、でも勝ち負けとは関係ないところで、なんか、なにかが、表現された気がするんだよなあ……みたいなことを考えたり考えなかったりしながらドラマ「ゆとりですがなにか」(日本テレビ系)を見ていたら、1987年生まれ、「ゆとり教育」第1世代の主人公がこんなセリフを吐くに至り、わが脳内でキンコンカンと鐘が鳴った。
個のうごめき、個の躍動。くくるなナメるな勝手に決めるな。あんたにとっては無意味でも、みんなそれぞれかけがえのない毎日を必死に生きているんだぜ――。かすかに聞こえる。さびついていた個の歯車が、動き始めた音が。
スイッチ押したの、誰だ?
*
「巫女(みこ)さんのくせになんだと思った」。自民党の大西英男衆院議員は、補選の応援で現地入りした際、神社の巫女から「自民はあまり好きじゃない」と言われたことを派閥の会合で紹介し、こう語った。一方、同党の赤枝恒雄衆院議員は「とりあえず中学を卒業した子どもたちは仕方なく通信(課程)に行き、やっぱりだめで女の子はキャバクラ行ったりとか」。子どもの貧困対策を推進する議員連盟の会合での発言だ。
敵か味方か。役に立つか立たないか。人間を、世界を、二つの「箱」に仕分けしたがる人がいる。そんな人たちに「1億総活躍」の旗を振られると、役に立て、味方になれと言われているようで、苦しい。
政治家だったら教えてくれよ。世界はもっと豊かだと。君は君が生きたいように生きていいのだと。そのためにこそ、政治はあるのだと。
*
本当は隠しておきたいけれど、かく言う私も人間を箱に入れてしまったことがある。
10年前、若年フリーターの貧困問題が顕在化し始めたころ、生活保護を受けている31歳の男性を取材した。2度目の取材だったか、お昼ご飯を食べながら、ということになった。お金がなくて10日以上何も食べられず、各所をたらい回しにされた末にやっと保護につながった彼。私は張り切った。ここはやっぱり肉だよね、肉。おいしいお肉をいっぱい食べさせてあげよう。だけど彼は申し訳なさそうに「すみません、僕、胃が小さくなっちゃって、重たいものは受け付けないんです」。
あ、そうかごめんごめん。スパゲティに変更したが、麺を2、3本ずつ咀嚼(そしゃく)する彼を見て、恥じた。己の善意を振りかざした私。「貧困」という箱に入れ、彼だけの生を理解していなかった私。
精密な受信器はふえてゆくばかりなのに/世界のできごとは一日でわかるのに/“知らないことが多すぎる”と/あなたにだけは告げてみたい。
(茨木のり子「知らないことが」)
ひとくくりにするな。
人の生をナメるな。
そう、知らないことが多すぎるのだ、私たちは。
朝日デジタル:(政治断簡)スプリング・ハズ・カム 政治部次長・高橋純子 2016年3月27日05時00分
全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。
季節がめぐり、自然と足取りも軽くなる今日このごろであるが、ひとつ、ずっと、引っかかっていることがある。
あの家の窓は、どうして閉まったままなのだろう。
通勤時に通りかかる、南西角の一軒家。南隣にくっつくように立っていた家屋が取り壊され、駐車場になった。日当たりも視界も各段に良くなったはずなのに、いつもカーテンがひかれている。
勝手な想像をめぐらせる。たぶんその家では、もはや南の窓は「ない」ことになっているのだろう。開けたところで、どうせ隣家の外壁だから。いつしかカーテンの開け閉めさえ忘れられ、もしかしたら家具が置かれてふさがれているのかもしれない。
もったいないというか、寂しいというか。窓を開ければ、これまでとは違う景色が見えるのに。うららかな日ざしがそそぎ、やわらかな風が吹き込んでくるのに。
*
前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
*
反日。国賊。売国奴。
いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
スプリング・ハズ・カム。
窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。
朝日デジタル:(政治断簡)「だまってトイレをつまらせろ」 あなたならどうする 政治部次長・高橋純子 2016年2月28日13時21分
「だまってトイレをつまらせろ」
このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。
ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。
①代表団を結成し、会社側と交渉する。
②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。
まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。
ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。
③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。
チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。
船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。
生かされるな、生きろ。
私たちは自由だ。
◇
念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。
ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。
気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。
◇
「ほかに選択肢はありませんよ――」
メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。
「この道しかない」
固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。
近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?
はい、もう一回。
だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。
朝日新聞なのに?、良い記事を読むことができた。
アイヒマン曽我豪のような小役人の宦官ダニ記者を飼ってることで購読者を侮り見下し、購読者の誇りを踏みにじり続けている朝日新聞だが、本来のジャーナリズムを感じさせる記者もいる。
その一人が高橋純子記者だ。以前から、長谷部恭男・早稲田大学教授と杉田敦・法政大学教授の朝日新聞『考論』の構成者として名を知っていた高橋純子記者の肉声を初めて聞いた。この文章には、曽我豪のような卑しさは微塵も無い。別に誉めるほどの内容ではない。ただあるべきジャーナリズム精神を感じるというだけだ。当たり前であることが難しい時代になったということだ。それでも貫いてほしい。
朝日デジタル:(政治断簡)スイッチ押したの、誰だ? 政治部次長・高橋純子 2016年5月1日05時00分
「だけどみんな違う。クズだけど、それぞれ違うクズなんだから『ゆとり』なんて言葉でくくらないでください」
衆院北海道5区補選で自民党公認候補当選確実の報に触れ、そっか、でも勝ち負けとは関係ないところで、なんか、なにかが、表現された気がするんだよなあ……みたいなことを考えたり考えなかったりしながらドラマ「ゆとりですがなにか」(日本テレビ系)を見ていたら、1987年生まれ、「ゆとり教育」第1世代の主人公がこんなセリフを吐くに至り、わが脳内でキンコンカンと鐘が鳴った。
個のうごめき、個の躍動。くくるなナメるな勝手に決めるな。あんたにとっては無意味でも、みんなそれぞれかけがえのない毎日を必死に生きているんだぜ――。かすかに聞こえる。さびついていた個の歯車が、動き始めた音が。
スイッチ押したの、誰だ?
*
「巫女(みこ)さんのくせになんだと思った」。自民党の大西英男衆院議員は、補選の応援で現地入りした際、神社の巫女から「自民はあまり好きじゃない」と言われたことを派閥の会合で紹介し、こう語った。一方、同党の赤枝恒雄衆院議員は「とりあえず中学を卒業した子どもたちは仕方なく通信(課程)に行き、やっぱりだめで女の子はキャバクラ行ったりとか」。子どもの貧困対策を推進する議員連盟の会合での発言だ。
敵か味方か。役に立つか立たないか。人間を、世界を、二つの「箱」に仕分けしたがる人がいる。そんな人たちに「1億総活躍」の旗を振られると、役に立て、味方になれと言われているようで、苦しい。
政治家だったら教えてくれよ。世界はもっと豊かだと。君は君が生きたいように生きていいのだと。そのためにこそ、政治はあるのだと。
*
本当は隠しておきたいけれど、かく言う私も人間を箱に入れてしまったことがある。
10年前、若年フリーターの貧困問題が顕在化し始めたころ、生活保護を受けている31歳の男性を取材した。2度目の取材だったか、お昼ご飯を食べながら、ということになった。お金がなくて10日以上何も食べられず、各所をたらい回しにされた末にやっと保護につながった彼。私は張り切った。ここはやっぱり肉だよね、肉。おいしいお肉をいっぱい食べさせてあげよう。だけど彼は申し訳なさそうに「すみません、僕、胃が小さくなっちゃって、重たいものは受け付けないんです」。
あ、そうかごめんごめん。スパゲティに変更したが、麺を2、3本ずつ咀嚼(そしゃく)する彼を見て、恥じた。己の善意を振りかざした私。「貧困」という箱に入れ、彼だけの生を理解していなかった私。
精密な受信器はふえてゆくばかりなのに/世界のできごとは一日でわかるのに/“知らないことが多すぎる”と/あなたにだけは告げてみたい。
(茨木のり子「知らないことが」)
ひとくくりにするな。
人の生をナメるな。
そう、知らないことが多すぎるのだ、私たちは。
朝日デジタル:(政治断簡)スプリング・ハズ・カム 政治部次長・高橋純子 2016年3月27日05時00分
全国各地から桜の便りが届いていますが、みなさまいかがお過ごしですか。こんにちは。「チリ紙1枚の価値もない」記事を書かせたら右に出るものなし、週刊新潮にそう太鼓判を押してもらった気がして、うれしはずかし島田も揺れる政治部次長です。
季節がめぐり、自然と足取りも軽くなる今日このごろであるが、ひとつ、ずっと、引っかかっていることがある。
あの家の窓は、どうして閉まったままなのだろう。
通勤時に通りかかる、南西角の一軒家。南隣にくっつくように立っていた家屋が取り壊され、駐車場になった。日当たりも視界も各段に良くなったはずなのに、いつもカーテンがひかれている。
勝手な想像をめぐらせる。たぶんその家では、もはや南の窓は「ない」ことになっているのだろう。開けたところで、どうせ隣家の外壁だから。いつしかカーテンの開け閉めさえ忘れられ、もしかしたら家具が置かれてふさがれているのかもしれない。
もったいないというか、寂しいというか。窓を開ければ、これまでとは違う景色が見えるのに。うららかな日ざしがそそぎ、やわらかな風が吹き込んでくるのに。
*
前回書いた「だまってトイレをつまらせろ」に多くの批判と激励をいただいたが、どうにもこうにもいただけなかったのが「死刑にしろ」だ。
どんなに気に食わなかったにせよ、刑の執行というかたちで国家を頼むのは安易に過ぎる。お百度踏むとかさ、わら人形作るとかさ、なんかないすか。昨今、わら人形はインターネットで即買いできる。しかしそんなにお手軽に済ませては効力も低かろう。良質なわらを求めて地方に足を運ぶくらいのことは、ぜひやってほしいと思う。
訪ねた農家の縁側で、お茶を一杯よばれるかもしれない。頬をなでる風にいい心持ちになるかもしれない。飛んできたアブをわらしべで結んだら、ミカンと交換することになり……「わらしべ長者」への道がひらける可能性もゼロとは言いきれない。
ひとは変わる。世界は変わる。その可能性は無限だ。
だけど、「死刑にしろ」と何百回電話をかけたところで、あなたも、わたしも、変われやしないじゃないか。
*
反日。国賊。売国奴。
いつからか、国によりかかって「異質」な他者を排撃する言葉が世にあふれるようになった。批判のためというよりは、排除のために発せられる言葉。国家を背景にすると、ひとはどうして声が大きくなるのだろう。一方で、匿名ブログにひっそり書かれたはずの「保育園落ちた日本死ね!!!」が、言葉遣いが汚い、下品だなどと批判されつつ、みるみる共感の輪を広げたのはなぜだろう。
なにものにもよりかからず、おなかの底から発せられた主体的な言葉は、世界を切りひらく力を、もっている。
スプリング・ハズ・カム。
窓を開けろ。歩け歩け自分の足で。ぼくらはみんな生きている。
朝日デジタル:(政治断簡)「だまってトイレをつまらせろ」 あなたならどうする 政治部次長・高橋純子 2016年2月28日13時21分
「だまってトイレをつまらせろ」
このところ、なにかにつけてこの言葉が脳内にこだまし、困っている。新進気鋭の政治学者、栗原康さんが著した「はたらかないで、たらふく食べたい」という魅惑的なタイトルの本に教えられた。
ある工場のトイレが水洗化され、経営者がケチってチリ紙を完備しないとする。労働者諸君、さあどうする。
①代表団を結成し、会社側と交渉する。
②闘争委員会を結成し、実力闘争をやる。
まあ、この二つは、普通に思いつくだろう。もっとも、労働者の連帯なるものが著しく衰えた現代にあっては、なんだよこの会社、信じらんねーなんてボヤきながらポケットティッシュを持参する派が大勢かもしれない。
ところが栗原さんによると、船本洲治という1960年代末から70年代初頭にかけて、山谷や釜ケ崎で名をはせた活動家は、第3の道を指し示したという。
③新聞紙等でお尻を拭いて、トイレをつまらせる。
チリ紙が置かれていないなら、硬かろうがなんだろうが、そのへんにあるもので拭くしかない。意図せずとも、トイレ、壊れる、自然に。修理費を払うか、チリ紙を置くか、あとは経営者が自分で選べばいいことだ――。
船本の思想のおおもとは、正直よくわからない。でも私は、「だまってトイレをつまらせろ」から、きらめくなにかを感受してしまった。
生かされるな、生きろ。
私たちは自由だ。
◇
念のため断っておくが、別にトイレをつまらせることを奨励しているわけではない。お尻痛いし。掃除大変だし。
ただ、おのがお尻を何で拭こうがそもそも自由、チリ紙で拭いて欲しけりゃ置いときな、という精神のありようを手放したくはないと思う。
他者を従わせたいと欲望する人は、あなたのことが心配だ、あなたのためを思ってこそ、みたいな歌詞を「お前は無力だ」の旋律にのせて朗々と歌いあげる。うかうかしていると「さあご一緒に!」と笑顔で促される。古今東西、そのやり口に変わりはない。
気がつけば、ああ合唱って気持ちいいなあなんつって、声を合わせてしまっているアナタとワタシ。ある種の秩序は保たれる。だけども「生」は切り詰められる。
◇
「ほかに選択肢はありませんよ――」
メディア論が専門の石田英敬・東大教授は2013年、安倍政権が発するメッセージはこれに尽きると話していた。そして翌年の解散・総選挙。安倍晋三首相は言った。
「この道しかない」
固有名詞は関係なく、為政者に「この道しかない」なんて言われるのはイヤだ。
近道、寄り道、けもの道、道なんてものは本来、自分の足で歩いているうちにおのずとできるものでしょう?
はい、もう一回。
だまってトイレをつまらせろ。ぼくらはみんな生きている。