1月25日(土):
170811 改めて 祝?100万PV超 m(_ _)m :自省録?自分の立ち位置について。
2017年08月11日 15時02分55秒 | 徒然・雑感
(2017年)8月11日(金):
100万PVを超えたことには、それなりの感慨を覚えている。
1年目 222冊 /2年目 99冊 /3年目 130冊 /4年目 103冊 /5年目 68冊 /6年目 88冊
現時点2132日目(100万PVの8月9日時点)で710冊。日数を冊数で割ると、3.00日に1冊を読んできたことになる。
そもそも一介の個人ブログとして100万PVというのは、当初想像もしていなかった。元々、妻に勧められて唯一の趣味(と思いたい)と言える読書の意欲促進及び読書記録が俺の手元だけで消えていくメモで終わらせたくない。
備忘録の公開、そこに徒然の日々の思いを少し書くこともあればいいかという軽いつもりで始めたのだ。見に来てくれる人など期待していなかった。
「一日一冊読書録」という言葉は、「本当に毎日一冊の本を読む。年間200冊以上は読むぞ!」というつもりで”遅読”の戒めを込めた表題であった。ところが、実際には、定年退職(と言っても別の働き口を見つけねばならない)を意識する年齢でも仕事はますます忙しくなっていく。
職場はICT環境を使って仕事の効率化を図っているというが、一方で逆に無意味な雑用を背負いきれないほど増やし続けて、根本的な仕事自体は疎かになり、形式を整えるためにキュウキュウとしている。「昔はもっとおっとりしていて良かった」と言えるのが年寄りの特権だとすれば、「本当に昔は良かった…かな?」。忙しいのは今と変わらないが、少なくとも今よりは本質的な部分に集中できていたように思う。生産性という言葉を使うならば、ICTによって仕事はよくできるようになったのか。むしろ、ICTが増殖して、人間に途方もない幻想を見させることによって人間をICTの家畜化しているのではないか。妙な気分である。
毎日1冊は、不可能だったが、発見として「どんな形であっても1冊の本は1日で最後まで読み(眺め)切るべきだ。ページ数が多すぎるなど、よほどの事情が無ければ次の日にまわすべきではない。結局、忘れるし、諦めるし、読み切れない。挫折する。」「どんなに不完全な読書になってしまってもいいから、とにかく1冊を1日のうちに最後まで行ってしまい、低レベルな感想しか残せなくて、どんなにもったいなくてもブログ更新までその日のうちにやり切ってしまう(思い出したり、書き継ぎたいことがあれば翌日書けばいい)のがいい。」ということが明確に分かった(はずである)。
不完全な読書は、元々仕方がないことで、本来”遅読”の俺がまともな読書をしようとすれば、どんな本でも8時間前後かかる。多忙な仕事を持つ身で、老眼がきつくなっている身で、「読書」を毎日続けるのは不可能なのだ。採るべき道は、自分がその日、その時関わりたいと思う著者の著書に毎日一定の時間コミットメントすることだけで満足する「遊書」にするしかない。
毎日続けるならば、240~320ページぐらいの本1冊2時間、最大3時間が限度だ。そこからページを繰る速度を逆算するしかない。
1ページ30秒の鉄則を守り、付箋は10秒でおさめ切る。「読む」行為へのこだわりを捨て、「眺める」行為を意識的に受け入れる。まともな読書にはならないだろうが、とにかくできる限りのたくさんの本に接することだ。
<質(読み)>ではなく、<量(冊数)>にこだわる原点を徹底的に意識化することだ。それでも、どんなに不完全な読書に終わっても
最後まで行った本は、それなりの深い感慨を与えてくれる。考えてみれば、当然のことで、現実世界で自分が尊敬し学べる人間と語り合い、謦咳に触れる機会なんて皆無に等しいのに対して、自分が選んだ本の著者は、自分が尊敬できる存在だ。そんな著者が、本気で考え、全力で書き記した著書を読む(眺める)という行為は、たとえそれが対話として、短時間であり、一方的な形であっても、現実世界では出会えない一流の人たちと他から邪魔されることもせかされることもなく、一対一で時間を共有できるのだ。何も残らないはずがないのだ。
今後より一層<質>より<量>にこだわって、一日一冊の<遊書>を励行しようと思う。「これほどの本をこんな読み方でもったいない…」と思う場合には、「じっくりではなく、何度も読み返す。そしてそれを何冊にもカウントする」というスタイルを徹底的に意識化し、実践していくのだ。
数字には魔力がある。冊数が増えれば、やはり嬉しく大きな励みになる。経験的に言えば、大体7割以上まで読めた本は、既読感が生まれる。今後、読み切りにこだわらず、7~8割ぐらいに行けば、読み切れなくても、それで1冊とカウントしようと思う。今までなかなか手を出せなかった「短編集」については、表題作だけ読めればそれは読んだことにする。「オー・ヘンリー短編集」のように表題作が示されない「短編集」ならページの半分を目安に1冊とカウントすればよい。数十ページでもよい。そうすれば、いままで手を出せなかった多くの短編集にも手を出せるようになる!」
「<生き抜く>という最重要の一点を護るためならば、一切の批判も反論も受け付けない!。逃げるのは恥だが生きるために役に立つ」という”逃げ恥”風に言えば、「どんなに不完全な読書であってもいいじゃないか!!。<読書習慣を維持する>という本質的な最重要目標を貫徹するためであれば、どこまででも大いに自分の読書を甘やかせばいいのだ。」
「漫画」も既に実践しているが、自分なりに実のあるものと判断できれば1冊とカウントする。実際、下手な小説や新書よりも内容の充実した「漫画」は多い。映像化されてる分、情報量が圧倒的に優れている場合が多いので、印象にも記憶にも残りやすい。昔は、漫画に対する後ろめたさから、内容の梗概を整理して載せたりしていたが、実際の読書よりずっと時間がかかった。今後はそういうことを義務感を持ってやることはやめる。
実はこのブログ、更新に結構時間がかかっている。最短で40分ぐらい、普通で1時間超、2時間以上もよくある。3時間の読書の後に、1時間半もブログに時間をかけていれば、本末転倒である。夜、「今なら1冊読めそう」と思っても、その後のブログ更新を考えて「諦める」という<逃げの選択>を無数に繰り返してきている。活字が自分の体を流れるのを常態化したい。そのためには、ブログ自体へのこだわりも捨てるべきだろう。
今後、老眼が進み、目がかすみ、本を読めなくなるまで、「一日一冊遊書録」を続けるつもりだが、もっともっと<遊書>に関しては自分を甘やかしていくつもりです。「逃げるは恥だが役に立つ」(ハンガリーのことわざらしい)は、物事の本質を見誤らないためのけだし名言だと思う。大事なのは「生き抜く」ことであり、本ブログに関して言えば、大事なのは「本と関わりを持ち続け、それを通して尊敬する先人や同時代人の謦咳に触れ、心豊かに生き抜くこと」なのである。
このブログをご訪問頂いている人たちには本当に不思議な奇特な人たちだと深く感謝しております。ただ、本を読み続けるためなら私は自分をとことん甘やかせていきたいと思っておりますこと、ご承知おきくださいませ。
とここまで書いて約2時間半、こんなことを自分が書こうとしていたとは全く考えてませんでした。指任せで考えてるというのが、日々の実態であります。こんなこと義務なら、大変な人生の無駄ですが、好きでやってるので趣味ということになります m(_ _)m