2月6日(水):
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NHK「100分で名著」でやっていた。
0015 オルテガ「大衆の反逆 (桑名一博訳;久野収解説)」(白水社イデー選書;1930)評価5
2012年11月12日 01時25分11秒 | 一日一冊読書開始
(2012年)11月11日(日):
259ページ 所要時間5:00 蔵書
著者47歳(1883-1955;スペイン人)。18年前(1994年)に線を引きながら読んだ本の再読である。いい加減な気分で手の出せる本ではないが、気真面目過ぎても手を出せる本ではない。何となく本棚に手が伸びてなんとなく読んでみようと思ったのだ。正直、5hで歯の立つ内容ではないが、逆に一日で読み切れずに毎日テキストとして付き合うような根気も意欲も無い。最後まで、目を這わせることが出来ただけ良かった!
18年前の線引き部分を読みながら、「あの時、何を考えてたんだろう」と思いつつ、18年前とは理解の度合いや注目箇所がズレているところもあるのを実感した。「このズレが成長の証であってくれればいいが…。何となく昔よりは考える視野は広がったようだなあ」と思った。思えば、この18年だけを取り出しても世界も日本も激変してきた。視野が広がるのは当然か…。
読んでいて、
この内容が第二次大戦前の1930年に書かれたことに、まず驚きを禁じ得なかった。大衆論、国民国家、ヨーロッパ合衆国、ボルシェビキとファシズムは根っこは同じで自由主義を敵視する、など
予言的で瑞々しい記述にあふれている。
以下は、オルテガ所論の久野収による抜粋の抜粋である:
オルテガによれば、政治のなかで「共存」への意志を最強力に表明し、実行していく政治スタイルこそ、自由主義的デモクラシーである。共存は、強い多数者が弱い少数者に喜んで提供する自己主張、他者説得の権利である。敵、それも最も弱い敵とさえ、積極的に共存するという、ゆるがない決意である。/その意味で、人類の自然的傾向に逆行する深いパラドックス(逆説)であるから、共存を決意した人類が、困難に面してこの決意を投げ出すほうへ後退したとしても、それは大きな悲劇ではあっても、大きな不思議とするには当たらない。/「敵と共存し、反対者と共に政治をおこなう」という意志と制度に背を向ける国家と国民が、ますます多くなっていく1930年代、オルテガは、「均質」化された「大衆」人間の直接行動こそが、あらゆる支配権力をして、反対派を圧迫させ、消滅させていく動力になるのだという。なぜなら、「大衆」人間は、自分たちと異類の非大衆人間との共存を全然望んでいないからである。略。
「大衆」人間は、自分たちの生存の容易さ、豊かさ,無限界さを疑わない実感をもち、自己肯定と自己満足の結果として、他人に耳を貸さず、自分の意見を疑わず、自閉的となって、他人の存在そのものを考慮しなくなってしまう。そして彼と彼の同類しかいないかのように振舞ってしまう。/彼らは、配慮も、内省も、手続きも、遠慮もなしに、「直接行動」の方式に従って、自分たちの低俗な画一的意見をだれかれの区別なく、押しつけて、しかも押しつけの自覚さえもっていない。/彼らは、未開人―未開人は宗教、タブー、伝統、習慣といった社会的法廷の従順な信者である―ではなく、まさに文明の洗礼を受けた野蛮人である。文明の生み出した余裕、すなわち、贅沢、快適、安全、便益の側面だけの継承者であり、正常な生存の様式から見れば、奇形としかいいようのないライフスタイルを営んでいる新人類である。略。
「自分がしたいことをするためにこの世に生まれあわせて来た」とする傾向、だから「したいことは何でもできる」とする信仰は、自由主義の自由の裏面、義務と責任を免除してもらう自由にほかならない。/われわれは自由主義の生みだした、この「大衆」人間的自由、自己中心的自由に対し、他者と共存する義務と責任をもった自由を保全しなければならないが、一筋縄でいかないのは、この仕事である。