第105代後奈良天皇(1497~1557)(在位1526~1557)の第2皇子で、母は万里小路栄子(マデノコウジエイシ)(1494~1522)の方仁親王(ミチヒト)は、父の死に伴って践祚し、第106代正親町天皇(オウギマチ)(1516~1593)(在位1557~1586)となりました。
今まで何回も出していた写真の深草十二帝陵の石柱、師団街道沿いに立ってると書いていましたが、古い友人から「師団街道から一筋ずれてる所」と指摘されましたので、今までの分は訂正します。
即位礼も践祚後2年余りで、毛利元就(モトナリ)の献金で、祖父や父と比べてもかなり早く挙行出来ました。
40歳で天皇になり、治世も30年に及び、織田信長・豊臣秀吉の織豊政権とは巧みに付き合って、朝廷の威信回復を成し遂げた天皇でもありました。
NHK大河「麒麟がくる」では、玉三郎が正親町天皇役をしてましたね。
典侍の万里小路房子(?~1580)との間に唯一の第1皇子誠仁親王(サネヒト)(1552~1586)が産まれましたが、皇位に就くことなく父に先立って亡くなっています。
1586年に亡くなったその誠仁親王の第1王子、すなわち正親町天皇の孫にあたる周仁親王(カタヒト)(1571~1617)を猶子にして譲位し、1593年に崩御し深草北陵(フカクサキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られています。
返事
Toitennさん:4人で遊びに来てください。
その時は「かんぴょう巻き」を用意しておきます。
当たり!奥の細道も半分の酒田までで極めています。
でもやっぱり、残り日本海沿い南下をいつかやり遂げたいです。