このgooブログで初めてですが、2ヶ月ぶりの天皇陵巡りの投稿です。
好評とは思えませんが、ここまで来たら止められません、今後もよろしくお願いします。
第104代後柏原天皇(1464~1526)(在位1500~1526)の第2皇子で、母は勧修寺藤子(カジュウジトウシ)の知仁親王(トモヒトシンノウ)は、父の崩御で践祚(センソ天皇の位を受け継ぐこと)し第105代後奈良天皇(ゴナラ)(1497~1557)(在位1526~1557)になりましたが、内戦で即位式(皇位に就いたことを内外に明らかにすること)は10年後の1535年に、北条・今川・朝倉・大内など諸大名の献金でやっと行うことが出来たぐらいです。
女院万里小路栄子(マデノコウジエイシ)(1494~1522)との間に2男2女をもうけ、その第1皇子方仁親王(ミチヒト)(1517~1593)が次の天皇になっていますし、他にも6人ほどの妃との間に皇子女をもうけています。
万里小路栄子は後奈良天皇になる前に亡くなりましたので、贈皇太后にはなってますが、その墓を私は見つけられませんでした。
深草北陵の制札の10番目に、後奈良の名がありました
父が桓武天皇の別称柏原帝にちなんで後柏原天皇と称したので、桓武ー平城親子にちなんで平城天皇の別称奈良帝より、後奈良天皇となったようです。
宸筆(天皇直筆)を売って、朝廷維持費の足しにすることもありましたが、疫病退散で金泥で書かれた写経を24ヶ国一宮に奉納されて、その最後には自分の徳のなさを責めている、正直な天皇だったようです。
深草北陵のこの写真も、もう2年前になりますかね
後奈良天皇の在位は32年に及びましたが(1526~1557)、その間1531年享禄の乱・1543年鉄砲伝来・1549年キリスト教伝来・1553年~川中島合戦と、いよいよ戦国時代に突入しました。
1560年6月12日の桶狭間の戦いの3年前に亡くなった後奈良天皇は、深草北陵(フカクサノキタノミササギ)(伏見区深草坊町)に葬られ、その灰塚は月輪陵にもあります。
返事
Toitennさん:楽しみです。
大雪男さん:粽を剥いて、この色が出てきたのは衝撃でしたが、
剥くまでが楽しいお菓子に過ぎなかったようです。
もう勝負を超越して見ることが出来る今年のNLBもそれなりです。
団体スポーツの個人にだけ焦点を当てて喜んでる、
日本人のMLB観戦は好きでは ありません。
右上朱印「一日不可無」柏餅、
たぶん唐詩からの引用で、(この柏餅)無しでは一日も暮らせない、
の意味だと思います。