島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

五山送り火

2020-08-17 | 京都
 
 新型コロナの第2波がこんなに早く、暑い夏にやってくるとは思ってなかったヤブ医者で、冬のインフルエンザの時期に第2波が重なったら嫌だなあと、漠然と思っていたぐらいの私です。
第2波もなかなか終息せず、そんなわけで今年のお盆はなにをするでもなく、出かけるのも仕事だけで、暑すぎてクーラーも効かない自宅で、ボーと過ごしてしまいました。
唯一の幸いは、このお盆2週4回の土日競馬は、当たらない三連複を止めて馬連中心で買ったためか、ほんのちょっとの負けで済んだことです。
  写真は昨年の五山の送り火「船形」です。
 
 これまた昨年の送り火「妙」、我が家は特等席です。
京都の三大祭は、秋の時代祭りも早々と中止になって、全滅です。
 スメ[ツ界も新型コロナ陽性者が増えてるので、今季のラグビーも心配です。
箱根駅伝も、道路上の見物人を排除して、無観客でやるのでしょうか。
 
 昨日16日の京都五山送り火は、中止ではなく見物客が密集しないように、縮小と言うことで、最低限のことをすることになりました。
 それでも、近畿放送やNHKBSのTV中継はありました。
 
 マンションが建って、我が家からは、「大」は一番上が見えるだけになってしまっています。
今年は「大」は6カ所だけしか点火しないのですが、元々一番上しか見えないので、今年の形式でも、我が家からはいつもの「大」と同じこれだけです。
 
 「船形」も帆柱の上1カ所だけの点火です。
ちょっと寂しいですし、窓の外から例年は聞こえてくる、見物人のどよめきもありません。
 
 
 我が家のメイン「妙」も、その日の昼に見てみると、中央に薪を積んでカバーされた白いものが見えました。
今年は山の草刈も、あまりなかったような気がします。
 
 そこに点火です。
 
 
 ズームしてみると、周りに人影も見え、お題目の声も聞こえてきました。
でも今年は、なんとなく寂しく送り火は終わりました。
我が家のお客さんも娘夫婦と孫の4人だけです。
 送り火は終わりましたが、秋の気配は今日も全くありません、暑い暑い!
自転車通勤も暑いです。

       返事
花水木さん:その当時の82歳ですので、
    今なら100歳以上の感じ、
    60代ではまだまだ老婆には程遠いですよ。
     「老婆は1日にしてならず」ですか、なるほど!
     symbol7老爺(ロージ)僕を誰が
         老爺 そんなにしたの
           老爺 悪い夢を忘れてしまおう~
      私は「傷だらけの老爺(ロージジイ)」です。

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69-2後朱雀天皇皇后禎子内親王

2020-08-14 | 天皇陵巡り
 
 藤原道長(966~1028)がやや強引に、もう皇子もいる第67代三条天皇(976~1017)に次女妍子(ケンシ)(994~1027)を入内させ、皇后にもしましたが、二人の間には皇子は生れませんでした。
唯一産まれたのが、今回の禎子内親王(テイシナイシンノウ)(1013~1094)です。
  龍安寺の裏山には沢山の陵が並んでいますので、龍安寺駐車場を少し行くと、こんな宮内庁製の案内板が有りました。(私は本当はここに降りて来たのですが)
 
 父三条天皇の従兄弟第66代一条天皇と道長長女で伯母にあたる彰子との間に産まれた敦良親王(アツナガ)には、既に道長6女で叔母である嬉子(ヨシコ)が東宮妃に入り、第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025~1068)(後の第70代後冷泉天皇)が産まれていますが、嬉子は産後すぐに亡くなっていました。
そこで、禎子内親王が14歳で1027年に入内し、東宮妃となりました。
  皇后陵ですが、久しぶりの内親王からの皇后のせいか立派です。
 
 禎子内親王は良子内親王(ナカコ・リョウシ)(1030~1077)・娟子内親王(ケンシ)(1032~1103)を産んだ後に、1034年尊仁親王(タカヒト)(1034~1073)(後の第71代後三条天皇)を産みました。
 その後夫の敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(1009~1045)(在位1036~1045)になったので、中宮にも成れました。
 
 しかしその頃には、祖父道長も父三条天皇も母藤原妍子も亡くなっていて、道長息子の頼通の世になっていたので、禎子内親王の地位も危ういものでした。
しかしその後、息子尊仁親王がなんとか異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子になれ、その後は第71代後三条天皇にも成ったので、禎子内親王は陽明門院と女院を宣下され、国母にまでなりました。
  火葬されたのは、藤原家からの皇后たちと同じ鳥戸野です。
 
 禎子内親王は、孫の第72代白河天皇・曽孫の第73代堀河天皇の即位も見届け、82歳で亡くなり、この立派な龍安寺裏の圓乗寺東陵(エンジョウジノヒガシノミササギ)(右京区龍安寺御陵の下町)に葬られました。
 
 右手前に少し石柵が見えてるのが禎子内親王の陵で、一人だけで独立していますが、左奥に写ってるのが夫後朱雀・義子後冷泉・実子後三条の三人の合わさったような陵です。
さすが内親王からの皇后で、力の有った老婆だったのですかね。

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69-1後朱雀天皇

2020-08-12 | 天皇陵巡り
 
 敦良親王(アツナガシンノウ)は第66代一条天皇の第3皇子で、母は藤原彰子です。
同母兄で第2皇子の第68代後一条天皇が即位した時は、第67代三条天皇の皇子で後一条より年上の敦明親王(アツアキラ)が皇太子に立ちましたが、道長の力の前には皇太子を自ら辞退せざるをえない羽目になって、替わって敦良親王が立太子しました。
  陵は龍安寺裏山にある円融天皇火葬塚から、一條・堀河天皇陵を通って龍安寺近くまで降りてくると、有りました。
 
 同母兄後一条天皇の譲位・崩御に伴って、28歳で敦良親王は即位し第69代後朱雀天皇(ゴスザク)(1009~1045)(在位1036~1045)になりました。
 皇太子の時から東宮妃として道長6女で叔母にあたる嬉子(キシ)が入内していて、1025年には第1皇子親仁親王(チカヒト)(1025~1068)(後の第70代後冷泉天皇)も産まれていますが、嬉子は出産2日後に亡くなっています。
  三つ鳥居が並んだ陵の向かって右が後朱雀陵です。
   
 叔母にあたる嬉子の死後、これまた叔母にあたる道長娘妍子を母にする三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013~1094)も1027年に入内したので、これは従兄妹婚です。
禎子内親王との間には第2皇子尊仁親王(タカヒト)(1031~1073)(後の第71代後三条天皇)が産まれました。
即位後は関白頼通などが次々と娘を後朱雀天皇に入内させましたが、皇子は生れることなく、このことが摂関政治が終わる始まりとなったようです。
 
 後朱雀天皇は28歳から9年間、成人天皇として在位してましたが、政治の実権はまだまだ道長の息子関白頼通など藤原北家一族が握っていました。
 後朱雀天皇は息子後冷泉天皇に譲位しすぐ出家、そしてすぐに崩御し、圓乗寺陵(エンジョウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山(シュヤマ))に息子二人と並んで葬られています。
 
 後朱雀天皇の火葬塚は、別に北区平野上柳町の金閣小学校校門前にあって、別の判りにくい狭い道から入っていくとありました。

       返事
花水木さん:もうすでに巡ってる陵が、
    10はありますので、今は休憩中ですよ。
     シガールって、筒状のお菓子ですね。
    お菓子も缶が少なくなっていますが。
    私も捨てられず、葉巻の缶・お菓子の缶まだ使ってますね。

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68-2 後一条天皇皇后威子

2020-08-09 | 天皇陵巡り
 
 藤原威子(フジワラノイシ・タケコ)(1000~1036)は、あの道長・倫子の4女です。
栄光の同母兄弟姉妹には、長女彰子・長男頼通(ヨリミチ)(992~1074)・次女妍子・5男教通(ノリミチ)・6女嬉子がいます。
  細長い宇治陵総拝所(宇治市木幡)を、横の道から眺めています。
 
 1018年、甥である第68代後一条天皇(1008~1036)(在位1016~1036)に入内、女御→中宮と成りましたが、小学3~4年生の夫と高校3年~大学1年生ぐらいの妻と言うことで、威子本人は恥ずかしがっていたようです。
 これで父道長の娘3人が、皇后(威子)・皇太后(妍子)・太皇太后(彰子)の三后となり、道長は偉業達成です。
  宇治陵制札の文字、威子の名前がこの時は一番濃く残っていました。
 
 後宮に入ったのは威子一人だけで、当時としては珍しく一夫一婦制になったのは、皆が道長の権威を恐れて、娘を入内させる勇気が無かったことが一因でしょう。
二人の間には、残念ながら皇子は生れず、章子内親王(ショウシ)(1027~1105)・馨子内親王(ケイシ)(1029~1093)の女しか産まれなかったので、これは道長の満月が欠けだす兆候でもあったのですかね。
  この写真は、哲学の道近くにある第63代冷泉天皇の桜本陵(左京区鹿ケ谷)です。
 
 後一条天皇が30前に亡くなって半年後、後を追うように威子も亡くなり、やっぱり藤原家ゆかりの宇治木幡の辺りに葬られたようです。
  桜本陵は威子の火葬塚でもありますが、制札に書かれてあるだけで、塚のようなものを、私は確認できていません。

      返事
花水木さん:私の子供時代、 
    泉屋クッキーの工場が近くにあったので、
    怪我した人を診たお礼に、欠けたり焼きすぎたりしたクッキーを、
    一斗缶に一杯、よく貰いました。
    それが私の最高のおやつでしたので、
    今でも綺麗な泉屋クッキーより、焦げたのの方が好きです。

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68-1後一条天皇

2020-08-07 | 天皇陵巡り
 
 敦成親王(アツヒラシンノウ)は第66代一条天皇(980~1011)(在位986~1011)の第2皇子で、母は道長(966~1027)の娘彰子(988~1074)ですので、外戚の地位を目指す道長にとっては待望の皇子で、産まれたのも道長邸宅の京極殿(キョウゴクドノ)ですし、摂関政治を掌握する為の希望の星でした。
  陵は山の斜面にあって、街中にしては立派です。
 
 定子の子で一条天皇の第1皇子敦康親王(アツヤス)を差し置いて、敦成親王は4歳で第67代三条天皇の皇太子になり、三条天皇のほぼ強制的な譲位により9歳で即位し、第68代後一条天皇(ゴイチジョウ)(1008~1036)(在位1016~1036)となりました。
  拝所も広々としています。
 
 皇太子には三条天皇の第1皇子敦明親王(アツアキラ)(994~1051)が立ちましたが、天皇は9歳皇太子は23歳、父三條天皇もすぐに亡くなり、後ろ盾を失った敦明親王は1年ほどで、道長の前に屈して皇太子を辞退することになっています。
 その後、後一条天皇の皇太子に立ったのは、1歳年下の同母弟敦良親王(アツナガ)(後の第69代後朱雀天皇)です。
  後冷泉天皇の皇后になった娘の章子内親王と同じ陵です。
 
 皇后には道長の三女威子(イシ)(1000~1031)が20歳で入内、9歳年上女房ですが、この頃は珍しい唯一の皇后でした。
二人の間には皇子は生れず、二人の内親王が産まれただけでした。
  陵を一周すると、大きくて奥があることが判りました。
 
 後一条天皇皇后にこの三女威子が成り、長女彰子が一条天皇・次女妍子が三条天皇の皇后になってますので、これで道長の娘三人が皇后になるという「一家三后」と成りました。
   この世をば 我が世とぞ思う 望月の
       欠けたることも なしと思えば
と、道長が歌ったのはこの頃ですが、満月になったら次は月は欠けるだけ、そろそろ藤原北家の時代にも秋風がたってきたようです。
  陵からは、送り火の大文字で有名な、東山如意ヶ岳がすぐそこに見えます。
 
 1027年道長は死にましたが、長男頼通(ヨリミチ)は上手にその後を継いでいたので、後一条天皇は在位20年ありましたが、まだまだ自分が主導して国政をとるまでには至りませんでした。
 
 1036年後一条天皇は突然の崩御の為、上位の儀式が間に合わず、喪を秘して同母弟後朱雀天皇への譲位儀式を行ったそうです。
 大文字の見える菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に娘の章子内親王(ショウシ)(1027~1105)と共に葬られています。

        返事
花水木さん:50年以上前に初めて食べた、
    ミスタードーナツも衝撃でした。
    最近衝撃が無いのは、加齢で味音痴になったからですかね。

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