島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

68-2 後一条天皇皇后威子

2020-08-09 | 天皇陵巡り
 
 藤原威子(フジワラノイシ・タケコ)(1000~1036)は、あの道長・倫子の4女です。
栄光の同母兄弟姉妹には、長女彰子・長男頼通(ヨリミチ)(992~1074)・次女妍子・5男教通(ノリミチ)・6女嬉子がいます。
  細長い宇治陵総拝所(宇治市木幡)を、横の道から眺めています。
 
 1018年、甥である第68代後一条天皇(1008~1036)(在位1016~1036)に入内、女御→中宮と成りましたが、小学3~4年生の夫と高校3年~大学1年生ぐらいの妻と言うことで、威子本人は恥ずかしがっていたようです。
 これで父道長の娘3人が、皇后(威子)・皇太后(妍子)・太皇太后(彰子)の三后となり、道長は偉業達成です。
  宇治陵制札の文字、威子の名前がこの時は一番濃く残っていました。
 
 後宮に入ったのは威子一人だけで、当時としては珍しく一夫一婦制になったのは、皆が道長の権威を恐れて、娘を入内させる勇気が無かったことが一因でしょう。
二人の間には、残念ながら皇子は生れず、章子内親王(ショウシ)(1027~1105)・馨子内親王(ケイシ)(1029~1093)の女しか産まれなかったので、これは道長の満月が欠けだす兆候でもあったのですかね。
  この写真は、哲学の道近くにある第63代冷泉天皇の桜本陵(左京区鹿ケ谷)です。
 
 後一条天皇が30前に亡くなって半年後、後を追うように威子も亡くなり、やっぱり藤原家ゆかりの宇治木幡の辺りに葬られたようです。
  桜本陵は威子の火葬塚でもありますが、制札に書かれてあるだけで、塚のようなものを、私は確認できていません。

      返事
花水木さん:私の子供時代、 
    泉屋クッキーの工場が近くにあったので、
    怪我した人を診たお礼に、欠けたり焼きすぎたりしたクッキーを、
    一斗缶に一杯、よく貰いました。
    それが私の最高のおやつでしたので、
    今でも綺麗な泉屋クッキーより、焦げたのの方が好きです。

コメント (1)
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