島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

68-1後一条天皇

2020-08-07 | 天皇陵巡り
 
 敦成親王(アツヒラシンノウ)は第66代一条天皇(980~1011)(在位986~1011)の第2皇子で、母は道長(966~1027)の娘彰子(988~1074)ですので、外戚の地位を目指す道長にとっては待望の皇子で、産まれたのも道長邸宅の京極殿(キョウゴクドノ)ですし、摂関政治を掌握する為の希望の星でした。
  陵は山の斜面にあって、街中にしては立派です。
 
 定子の子で一条天皇の第1皇子敦康親王(アツヤス)を差し置いて、敦成親王は4歳で第67代三条天皇の皇太子になり、三条天皇のほぼ強制的な譲位により9歳で即位し、第68代後一条天皇(ゴイチジョウ)(1008~1036)(在位1016~1036)となりました。
  拝所も広々としています。
 
 皇太子には三条天皇の第1皇子敦明親王(アツアキラ)(994~1051)が立ちましたが、天皇は9歳皇太子は23歳、父三條天皇もすぐに亡くなり、後ろ盾を失った敦明親王は1年ほどで、道長の前に屈して皇太子を辞退することになっています。
 その後、後一条天皇の皇太子に立ったのは、1歳年下の同母弟敦良親王(アツナガ)(後の第69代後朱雀天皇)です。
  後冷泉天皇の皇后になった娘の章子内親王と同じ陵です。
 
 皇后には道長の三女威子(イシ)(1000~1031)が20歳で入内、9歳年上女房ですが、この頃は珍しい唯一の皇后でした。
二人の間には皇子は生れず、二人の内親王が産まれただけでした。
  陵を一周すると、大きくて奥があることが判りました。
 
 後一条天皇皇后にこの三女威子が成り、長女彰子が一条天皇・次女妍子が三条天皇の皇后になってますので、これで道長の娘三人が皇后になるという「一家三后」と成りました。
   この世をば 我が世とぞ思う 望月の
       欠けたることも なしと思えば
と、道長が歌ったのはこの頃ですが、満月になったら次は月は欠けるだけ、そろそろ藤原北家の時代にも秋風がたってきたようです。
  陵からは、送り火の大文字で有名な、東山如意ヶ岳がすぐそこに見えます。
 
 1027年道長は死にましたが、長男頼通(ヨリミチ)は上手にその後を継いでいたので、後一条天皇は在位20年ありましたが、まだまだ自分が主導して国政をとるまでには至りませんでした。
 
 1036年後一条天皇は突然の崩御の為、上位の儀式が間に合わず、喪を秘して同母弟後朱雀天皇への譲位儀式を行ったそうです。
 大文字の見える菩提樹院陵(ボダイジュインノミササギ)(左京区吉田神楽岡町)に娘の章子内親王(ショウシ)(1027~1105)と共に葬られています。

        返事
花水木さん:50年以上前に初めて食べた、
    ミスタードーナツも衝撃でした。
    最近衝撃が無いのは、加齢で味音痴になったからですかね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする