島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

植物園

2020-05-20 | ノンジャンル
 
 懐かしの富江病院情報誌=みじょか=、毎月1回発行で、私の在職中から発行されたので、もう5年以上第64号になっていました。
巻末には不肖私が連載しだした-富江探訪-、これももう第60回と続いていますので、今でも律儀に毎月我が家まで届けてくれます。
私がたぶん=みじょか=(可愛い女の子の意)の、一番遠い所の読者になってると思います。
小原院長!まだ貝集めてますか~、外来・病棟・事務所・食堂・リハビリ・検査・レントゲンや警備室の皆さん・そして退職した人も、お元気ですか~。
一人ぐらいは読んでくれてると思うので、よろしく!
 五島列島は、まだ感染者ゼロのようですが、やっぱり三密は避けてるんですね。
 
 京都は今日にでも解除されそうですが、私の今日の出勤はまだ許可されていないので、再開した植物園まで朝の散歩です。
 京都府立植物園には、老人証明書で無料で入れますが、やっぱりおでこの熱を測られました。
 朝一番でしたが、暑くもなく寒くもなく、風もさわやかな一日です。
後ろに写る温室だけは、まだ解放されていませんでした。
 
 植物園の桜は、ほぼ人に観られることなく、今年は葉桜になりました。
園内のバラ園は満開です。
今日は平日で観れますが、土日は混みそうなので、バラ園だけは人を入れないそうです。
そんなことをしたら、周りに人があふれて、余計に密になりそうですよ。
 三密の味は、蜜の味!

 やはり薔薇は、真っ赤なバラが薔薇らしいですね!
     symbol7ばあらがさいたあ~ ばあらがさいたああ
    真っ赤なばあらあ~が 
 
 花の周りには、ここも年寄りの写真マニアが多いです。
同じ年寄りとして、私も件p的に撮ってみましたが、狙いが感じられなく、もひとつでした。
 
 園内のベンチも、真ん中に紐がかけられて、座れないのかと思ったら、「離れてお座りください」の貼紙。
 左右に座ってみましたが、我々年寄りのアベックには、丁度良い距離かも。
恋人同士なら、ちょっと離れすぎで、いやでしょうが、初デートなら、この距離もなかなか良いと思いますよ。
それから徐々に距離が縮まって、愛し合えるようになる、と妄想に耽りながら、植物園のベンチに、家内の「行くよ」の声まで座っていました。

      返事
花水木さん:TVの取材を受けてる小学生は、
    「学校に行って勉強したい」とか「友達に会いたい」とか、
    我が孫よりしっかりと言ってましたよ。
     フランス人まで皆マスクをしてますね。
    誰がマスクは絶対なんてことを言いだしたんでしょうね。
大雪男さん:山まで自粛って、
    何か不可解ですね。
     もう汗やつばが飛び交うスメ[ツは無理なんでしょうか・・・。
 

コメント (3)
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63⁻1冷泉天皇

2020-05-18 | 天皇陵巡り
 
 また月曜日、自転車で鴨川を渡って出勤ですが、帰った午後は雨になりました。
新型コロナは夏に向かって一旦は終息しそうですね。
でも、緊急事態宣言は解除されてきましたが、新しい生活様式ででって、マスクも付けて、距離も保って、三密は避けて、なんか「人間は危ないので近寄らないように、あんたも危ない人間だから近寄らんといて」と、言われてるようで、生活変えろって言われても・・・。
 なんか寂しい未来ですね。
新型コロナ自体には今の所負けてはいませんが、新型コロナの作る世界に負けそうなので、腰が痛い?です。
新しい生活様式の新人類には成れそうもないので、旧人類として滅びて行きそうですが、滅びる前に又天皇陵巡りです。
   よろしく!
  
 第62代村上天皇8(926~967)と藤原安子(927~964)が一緒になったのは、安子13歳の時です。
一人内親王が産まれましたが、皇子は10年後にやっと憲平親王(ノリヒラシンノウ)が産まれました。
 哲学の道の向こうにわずかに陵が見える写真です。
 
 第1皇子としては、ちょっと前に産まれた広平親王(ヒロヒラ)(950~971)がいましたが、母親が大納言藤原元方(モトカタ)(南家)の娘で更衣の藤原祐姫(スケヒメ)でしたので、外祖父の力の差で、藤原師輔(モロスケ)の娘安子産の憲平親王が、生後すぐに立太子しています。
 
 ちなみに、天皇の外戚になり損ねた元方は、気落ちして病死したのですが、冷泉天皇の精神の病、三条天皇の目の病は、この元方の怨霊のなせる業とも言われました。
 
 憲平親王は父村上天皇が亡くなったので、18歳で即位第63代冷泉天皇(レイゼイ)(950~1011)(在位967~969)となりました。
実権は関白になった藤原実頼(サネヨリ)が握ったままでした。
 
 冷泉天皇は子供の時から奇行が多く、父村上天皇への手紙に大きく陰茎を書いたり、一日中足から血が出るほど蹴鞠を続けていたとか、所かまわず大声で歌を歌った、とか書かれています。
まあ、子供はウ○チ・チ○モニか好きですし、一日中ゲームしてる子もいるので、それ程の奇行ではないような気もします。
冷泉天皇の家系は後に途絶えているので、例によって歴史書は奇行などを、誇張して残したのかもしれません。
 
 即位してすぐから、2歳年下で、父村上天皇が可愛がっていた同母弟為平親王(タメヒラ)(952~1010)を、次期天皇にとする動きもあったようですが、為平親王の妃が第60代醍醐天皇第10皇子で臣籍降下した優秀な左大臣源高明(タカアキラ)(914~983)であった為に、藤原北家の陰謀に依り、高明らは太宰府に流され、為平親王の目は潰されました。
これが969年の安和の変(アンナノヘン)です、今も昔も権力者は同じようなことをしますね。
 写真は御陵の南西近くに別に有る火葬塚への入り口です。
 
 安和の変後、冷泉天皇は譲位し、9歳年下の同母弟守平親王(モリヒラ)が第64代円融天皇になりました。
 門が閉まっていたので裏に廻ろうと一周して帰って来たら、何故か鍵が開いていたので、そっと参道を進んでみました。
丁度聡怩ノ来られていたようで、見つからないようにササッと写真を撮って戻りました。
 
 冷泉天皇の皇后は昌子内親王(950~999)ですが、子には恵まれませんでした。(避けたとも言われてます)
 女御の藤原懐子(カイシ)から第65代花山天皇が、女御の超子(チョウシ)から第67代三条天皇が産まれています。
 冷泉天皇火葬塚(左京区鹿ケ谷西寺ノ前町)
 
 譲位後40年以上の上皇生活を過ごし、鹿ケ谷近くで火葬され、桜本陵(サクラモトノミササギ)(左京区鹿ケ谷法然院町)に葬られています。
この御陵は、25年後に死んだ道長の娘で後一条天皇皇后威子(イシ)の火葬塚でもあるので、天皇の墓を火葬場に使うのは違和感ありますので、威子の火葬塚を後に冷泉天皇陵としたのですかね?

      返事
花水木さん:私の小学生の孫たちは、
    学校に行かない方が楽しいと、
    ちょっとドキッとするようなことを言ってます。
    私は小学生の時に、危うく留年するぐらいの半年以上病欠してます。
    その時もそれほど学校に行きたいとは思わなかったので、遺伝ですかね。

コメント (2)
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62-2村上天皇皇后藤原安子

2020-05-15 | 天皇陵巡り
 
 今週から仕事がまた始まりました。
まだ来なくても良い、と言われてる病院もあるので、3日間しか行ってませんが、なんか疲れました。
休みに慣れると、これくらいのたいしたこともない仕事でもしんどいです。
 今日は5月15日(金)、朝からすることないので、ブラブラ南の方まで散歩、本来なら今日は葵祭、でも下鴨神社周囲は、写真の如く静かです。
 競馬の貯金を入れて、週末に備えますが、京都もまだ解除してくれないので、今日から3日間の休みはなにをするか・・・・・。
YouTubeの講談と朗読を勧められましたし、NOTEというのも知りましたが・・・・。
 さて枕を終えて、本題の天皇陵巡りですが、「ア!席を立たないでくださいね」
 
 藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927~964)は、藤原忠平の次男師輔(モロスケ)の長女で、母親は藤原南家の藤原経邦(ツネクニ)の娘盛子(セイシ)(~943)です。
 宇治陵制札に沢山並んだ名前の3番目です。
  
 師輔-盛子夫婦は安子以外にも、伊尹(コレタダ)(924~972)(右大臣)・兼通(カネミチ)(925~977)(関白太政大臣)・兼家(カネイエ)(929~990)(摂政関白太政大臣)・忠君(タダキミ)・登子(トウシ)・怤子(フシ)と、計7人のそうそうたる子供をもうけています。
 宇治陵総拝所です。
 
 同母兄弟姉妹がそうそうたる人物になれたのは、940年に安子13歳で成明親王(後の村上天皇)と結婚し、
承子内親王(ショウシ)(948~951)4歳で没
憲平親王(ノリヒラ)(950~1011)後の冷泉天皇
為平親王(タメヒラ)(952~1010)
輔子内親王(ホシ)(953~992)伊勢斎王
資子内親王(シシ)(955~1015)
守平親王(モリヒラ)(959~991)後の円融天皇
選子内親王(センシ)(964~1035)12歳から57年間賀茂斎院
を産んだからです。
 写真は宇治陵4号へ通じる道、民家の間で分かり難い所ばかりに有ります。
 
 安子は末娘選子内親王を産んですぐに、37歳で亡くなっていますが、藤原北家から来た先代の穏子と安子の二人が、高齢になるまで沢山の子供を産んだことが、藤原北家の男たちに外戚としての地位を授けて、繁栄させたと言えます。
 丈夫で多産の娘を持った者が、偉くなって日本の政治を動かしていったという、平安時代の物語なんですね。
 左京区吉田の狭い道を歩いていて、突然新しい門を見つけました。

 
 この安子さん、嫉妬深い性格と言うか、気のきつい女の人だったようで、夫(天皇)が寵愛した藤原芳子(ヨシコ)があまりにも美人だったので、悔しくてかわらけを投げつけたり、それに立腹した天皇が、安子の兄弟たちを謹慎にすると(安子自身を怒るのは浮ゥったのですかね)、天皇に詰めよって、これを撤回までさせたそうです。
 塀の左から、少し内部が見えました。
 
 安子の陵は、やはり藤原北家の皇后たちが集まってる宇治陵(宇治市木幡)にまつられていますが、左京区吉田の橘井寮辺りで、他の陵墓を捜してる時に、かなり立派な塀に囲まれてる安子火葬塚(左京区吉田泉殿町)を見つけました。
 隣が更地になっていたので、右側からは全部見えました。
村上天皇皇后安子火葬塚です。
     返事
花水木さん:いつも替え歌を褒めてもらえるので、
    単純で褒め言葉にめっぽう弱い私は、うれしいです。
    NOTEを知りましたが、上手に登録できません。
    もう少しお待ちください。

コメント (1)
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62-1村上天皇

2020-05-11 | 天皇陵巡り
 
 外戚としての地位を、再び藤原北家に取り戻したのは、穏子(オンシ・ヤスコ)が頑張って、男の子を3人も産み続けたおかげのようです。
 穏子は第60代醍醐天皇との間に、18歳で保明親王(ヤスアキラ)を産み、保明は皇太子までで死にましたが、38歳で寛明親王(ユタアキラ)(後の第61代朱雀天皇)を産み、最後成明親王(ナリアキラシンノウ)を産んだのは41歳の時です。
 福王寺の五叉路から、息子の円融天皇陵の横を通って、宇多野小学校・妙光寺まで登って行くと、この参道入り口にたどり着きました。
 
 第14皇子成明親王が、同母兄朱雀天皇に代わって即位し、第62代村上天皇(ムラカミ)(926~967)(在位946~967)となりました。
 参道の石段は幅広く、綺麗に整備されていました。
 
 成人していたので、叔父の忠平(880~949)が関白を務め、忠平死後は、村上天皇自身の親政とも言われていますが、実質は忠平長男の実頼(サネヨリ)(900~970)と次男の師輔(モロスケ)(909~960)が握っていたようです。
 小高く立派な拝所が見えてきました。
 
 同母兄朱雀天皇より精力家であったのか、10人以上の女御・更衣に20人以上の子供を産ませています。
 第1皇子は大納言藤原元方(モトカタ)の娘祐姫(スケヒメ)が産んだ広平親王(ヒロヒラ)(950~971)ですが、祖父元方が藤原南家でしたので、残念ながら皇太子にはなれませんでした。
 結構高い所まで登ってきたので、振り返ると眺めは良いです。
 
 村上天皇中宮藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927~964)は右大臣師輔の娘であり、第2皇子憲平親王(ノリヒラ)(第63代冷泉天皇)・第7皇子守平親王(モリヒラ)(第64代円融天皇)など、9人もの皇子女をもうけており、憲平親王が皇太子に選ばれています。
 
 村上天皇の治世は、比較的平和でありましたが、承平・天慶の乱後の地方の荒廃や、財政の困窮など、問題はあったようです。
 村上天皇は42歳で崩御し、ここ村上陵(ムラカミノミササギ)(右京区鳴滝宇多野)の葬られています。
 私はこの鳴滝で大学生時代を過ごしましたが、ここまで登ってきたのは初めてです。

      返事
toitenlabeeさん:暑くなくてもマスクはうっとおしい。
    私はひげがフィルターになってるので、
    マスクは不用の人間なんですがね。

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連休終わり

2020-05-10 | ノンジャンル
 
 私にとって5月1日から始まった10日間のゴールデンウイーク、2回ほど入所者が亡くなられて臨時に呼び出されましたが、真ん中の木曜日に仕事に行っただけで、休日でした。
 最後の日朝8時半、雨が降る前の散歩も行って、この3回開催で負け続けてる競馬も、4回目の正直と買い終わり、残りの時間有効?に何に使いましょう。
 
  この10日間で出来たこと;
*再放送ばかりのTVや、新型コロナのニュースにも飽きました。
*YouTubeの利用の仕方を知ったのは、良かったです。(花水木さんに感謝)
*唯一Godfatherがゆっくり観れたのは収穫です、水曜日PartⅢも観れます。
*ドローンはこの通り上手になり、競馬を観ながらでも飛ばせるようになりました。
 早く孫たちに自慢したいものです。
*競馬は沢山やれた分だけ、沢山負けました。
 最後の今日のNHKマイルで、貯金はそこをつきました。
*毎日ぐらい近所の散歩は出来ましたが、早く他府県に行きたいです。
*こんな時の読書と思ってましたが、意外とこれは出来ませんでした。
*資料の整理は結構出来ましたが、外科関係の資料は大分破棄、
 どんどん外科臨床医から離れて行ってます。
 
*ブログの整理もしてみました。
 奈留島からの発信の頃は、半分以上がコメントの時も有ったので、
 今はちょっと寂しいです。
 あの頃よく万馬券もあったようですが、今はそれも夢。
*一度だけ自転車で天皇陵巡りした以外は、
 仕事に車で出たのと、近所の買い物に出たのと、散歩だけの外出。
 模範国民に近いぐらい・・・。
   symbol7にほお~んのために 守り通した 自粛の操
    今さあ~ら 人ごみに 出てわ~ 行けないわ
   コロナに 決して 負けたりしないから
   マスクわ~ はずさして ほしいのよ  
 でもこの10日間で、自粛太り約2kg!
少しは生き方が変わったような気がしますが、まあノー天気なのは変えずに、余生を楽しみたいと思ってます。
変わらずの御贔屓を、どうかよろしくお願いいたします。

       返事
toitenlabeeさん:私は自粛ボケになりそうです。
さんまさん:久しぶりにブログも更新されていましたね。
    私は卓球は全く出来ていません。
    富江の義兄さんは誰でしたかね?

コメント (1)
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