島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

63⁻1冷泉天皇

2020-05-18 | 天皇陵巡り
 
 また月曜日、自転車で鴨川を渡って出勤ですが、帰った午後は雨になりました。
新型コロナは夏に向かって一旦は終息しそうですね。
でも、緊急事態宣言は解除されてきましたが、新しい生活様式ででって、マスクも付けて、距離も保って、三密は避けて、なんか「人間は危ないので近寄らないように、あんたも危ない人間だから近寄らんといて」と、言われてるようで、生活変えろって言われても・・・。
 なんか寂しい未来ですね。
新型コロナ自体には今の所負けてはいませんが、新型コロナの作る世界に負けそうなので、腰が痛い?です。
新しい生活様式の新人類には成れそうもないので、旧人類として滅びて行きそうですが、滅びる前に又天皇陵巡りです。
   よろしく!
  
 第62代村上天皇8(926~967)と藤原安子(927~964)が一緒になったのは、安子13歳の時です。
一人内親王が産まれましたが、皇子は10年後にやっと憲平親王(ノリヒラシンノウ)が産まれました。
 哲学の道の向こうにわずかに陵が見える写真です。
 
 第1皇子としては、ちょっと前に産まれた広平親王(ヒロヒラ)(950~971)がいましたが、母親が大納言藤原元方(モトカタ)(南家)の娘で更衣の藤原祐姫(スケヒメ)でしたので、外祖父の力の差で、藤原師輔(モロスケ)の娘安子産の憲平親王が、生後すぐに立太子しています。
 
 ちなみに、天皇の外戚になり損ねた元方は、気落ちして病死したのですが、冷泉天皇の精神の病、三条天皇の目の病は、この元方の怨霊のなせる業とも言われました。
 
 憲平親王は父村上天皇が亡くなったので、18歳で即位第63代冷泉天皇(レイゼイ)(950~1011)(在位967~969)となりました。
実権は関白になった藤原実頼(サネヨリ)が握ったままでした。
 
 冷泉天皇は子供の時から奇行が多く、父村上天皇への手紙に大きく陰茎を書いたり、一日中足から血が出るほど蹴鞠を続けていたとか、所かまわず大声で歌を歌った、とか書かれています。
まあ、子供はウ○チ・チ○モニか好きですし、一日中ゲームしてる子もいるので、それ程の奇行ではないような気もします。
冷泉天皇の家系は後に途絶えているので、例によって歴史書は奇行などを、誇張して残したのかもしれません。
 
 即位してすぐから、2歳年下で、父村上天皇が可愛がっていた同母弟為平親王(タメヒラ)(952~1010)を、次期天皇にとする動きもあったようですが、為平親王の妃が第60代醍醐天皇第10皇子で臣籍降下した優秀な左大臣源高明(タカアキラ)(914~983)であった為に、藤原北家の陰謀に依り、高明らは太宰府に流され、為平親王の目は潰されました。
これが969年の安和の変(アンナノヘン)です、今も昔も権力者は同じようなことをしますね。
 写真は御陵の南西近くに別に有る火葬塚への入り口です。
 
 安和の変後、冷泉天皇は譲位し、9歳年下の同母弟守平親王(モリヒラ)が第64代円融天皇になりました。
 門が閉まっていたので裏に廻ろうと一周して帰って来たら、何故か鍵が開いていたので、そっと参道を進んでみました。
丁度聡怩ノ来られていたようで、見つからないようにササッと写真を撮って戻りました。
 
 冷泉天皇の皇后は昌子内親王(950~999)ですが、子には恵まれませんでした。(避けたとも言われてます)
 女御の藤原懐子(カイシ)から第65代花山天皇が、女御の超子(チョウシ)から第67代三条天皇が産まれています。
 冷泉天皇火葬塚(左京区鹿ケ谷西寺ノ前町)
 
 譲位後40年以上の上皇生活を過ごし、鹿ケ谷近くで火葬され、桜本陵(サクラモトノミササギ)(左京区鹿ケ谷法然院町)に葬られています。
この御陵は、25年後に死んだ道長の娘で後一条天皇皇后威子(イシ)の火葬塚でもあるので、天皇の墓を火葬場に使うのは違和感ありますので、威子の火葬塚を後に冷泉天皇陵としたのですかね?

      返事
花水木さん:私の小学生の孫たちは、
    学校に行かない方が楽しいと、
    ちょっとドキッとするようなことを言ってます。
    私は小学生の時に、危うく留年するぐらいの半年以上病欠してます。
    その時もそれほど学校に行きたいとは思わなかったので、遺伝ですかね。

コメント (2)
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