第60代醍醐天皇(38歳)と基経の娘中宮穏子(38歳)との間に産まれた3番目の子、醍醐天皇にとっては第11皇子ともなるのが寛明親王(ユタアキラ)です。
醍醐寺近くで、御陵を探します。
20年上で父醍醐の皇太子であった同母兄保明親王(ヤスアキラ)が21歳で亡くなり、その子慶頼王(ヨシヨリオウ)が皇太子に成りましたが、925年にわずか5歳で夭折。
11番目の皇子であっても、母穏子の家系の圧涛Iな力で、寛明親王が926年に3歳で立太子しています。
道路から真っ直ぐ、民家に囲まれた細長い参道が続いています。
そして父醍醐が亡くなったので、寛明親王はわずか8歳で即位し、第61代朱雀天皇(スザク)(923~952)(在位930~946)となりましたが、現実の政治は、叔父で時平の弟の藤原忠平が、摂政関白として主導しています。
同母兄保明親王と時平の娘仁善子(ニゼコ)との間の子である煕子女王(キシ)(すなわち慶頼王の妹)を女御に迎え(937年)、昌子内親王が生れましたが、直後に煕子女王は亡くなり、以後も他の妃から男子は生れませんでした。
奥の拝所は予想以上に広かったです。
朱雀天皇がだんだん成長して、忠平の手に余ってきたのか、946年に24歳で弟の村上天皇に譲位しました(させられました)。
朱雀上皇は最後は出家して亡くなり、父醍醐天皇の御陵から500mしか離れてない醍醐陵(ダイゴノミササギ)(伏見区醍醐御陵)に葬られています。
朱雀天皇の治世中は、なんといっても関東で平将門が、瀬戸内海で藤原純友が挙兵した、承平天慶の乱(ジョウヘイテンギョウノラン)(939~941)が起こりました。
高校日本史では、平将門の乱・藤原純友の乱と別々に憶えたような気もしますが。
返事
toitenlabeeさん:外科手術をしていた頃や・
島の医者をしていた頃の方が、そりゃあやりがいはあった気はします。
今の仕事は、やりがいは少ないとも思ってますが、
その分家に帰ってから、しょうもないことですが、熱心に出来る利点はあります。
勉強(しょうもあることですよね)、頑張って下さい!