島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

62-1村上天皇

2020-05-11 | 天皇陵巡り
 
 外戚としての地位を、再び藤原北家に取り戻したのは、穏子(オンシ・ヤスコ)が頑張って、男の子を3人も産み続けたおかげのようです。
 穏子は第60代醍醐天皇との間に、18歳で保明親王(ヤスアキラ)を産み、保明は皇太子までで死にましたが、38歳で寛明親王(ユタアキラ)(後の第61代朱雀天皇)を産み、最後成明親王(ナリアキラシンノウ)を産んだのは41歳の時です。
 福王寺の五叉路から、息子の円融天皇陵の横を通って、宇多野小学校・妙光寺まで登って行くと、この参道入り口にたどり着きました。
 
 第14皇子成明親王が、同母兄朱雀天皇に代わって即位し、第62代村上天皇(ムラカミ)(926~967)(在位946~967)となりました。
 参道の石段は幅広く、綺麗に整備されていました。
 
 成人していたので、叔父の忠平(880~949)が関白を務め、忠平死後は、村上天皇自身の親政とも言われていますが、実質は忠平長男の実頼(サネヨリ)(900~970)と次男の師輔(モロスケ)(909~960)が握っていたようです。
 小高く立派な拝所が見えてきました。
 
 同母兄朱雀天皇より精力家であったのか、10人以上の女御・更衣に20人以上の子供を産ませています。
 第1皇子は大納言藤原元方(モトカタ)の娘祐姫(スケヒメ)が産んだ広平親王(ヒロヒラ)(950~971)ですが、祖父元方が藤原南家でしたので、残念ながら皇太子にはなれませんでした。
 結構高い所まで登ってきたので、振り返ると眺めは良いです。
 
 村上天皇中宮藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927~964)は右大臣師輔の娘であり、第2皇子憲平親王(ノリヒラ)(第63代冷泉天皇)・第7皇子守平親王(モリヒラ)(第64代円融天皇)など、9人もの皇子女をもうけており、憲平親王が皇太子に選ばれています。
 
 村上天皇の治世は、比較的平和でありましたが、承平・天慶の乱後の地方の荒廃や、財政の困窮など、問題はあったようです。
 村上天皇は42歳で崩御し、ここ村上陵(ムラカミノミササギ)(右京区鳴滝宇多野)の葬られています。
 私はこの鳴滝で大学生時代を過ごしましたが、ここまで登ってきたのは初めてです。

      返事
toitenlabeeさん:暑くなくてもマスクはうっとおしい。
    私はひげがフィルターになってるので、
    マスクは不用の人間なんですがね。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする