島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

62-2村上天皇皇后藤原安子

2020-05-15 | 天皇陵巡り
 
 今週から仕事がまた始まりました。
まだ来なくても良い、と言われてる病院もあるので、3日間しか行ってませんが、なんか疲れました。
休みに慣れると、これくらいのたいしたこともない仕事でもしんどいです。
 今日は5月15日(金)、朝からすることないので、ブラブラ南の方まで散歩、本来なら今日は葵祭、でも下鴨神社周囲は、写真の如く静かです。
 競馬の貯金を入れて、週末に備えますが、京都もまだ解除してくれないので、今日から3日間の休みはなにをするか・・・・・。
YouTubeの講談と朗読を勧められましたし、NOTEというのも知りましたが・・・・。
 さて枕を終えて、本題の天皇陵巡りですが、「ア!席を立たないでくださいね」
 
 藤原安子(アンシ・ヤスコ)(927~964)は、藤原忠平の次男師輔(モロスケ)の長女で、母親は藤原南家の藤原経邦(ツネクニ)の娘盛子(セイシ)(~943)です。
 宇治陵制札に沢山並んだ名前の3番目です。
  
 師輔-盛子夫婦は安子以外にも、伊尹(コレタダ)(924~972)(右大臣)・兼通(カネミチ)(925~977)(関白太政大臣)・兼家(カネイエ)(929~990)(摂政関白太政大臣)・忠君(タダキミ)・登子(トウシ)・怤子(フシ)と、計7人のそうそうたる子供をもうけています。
 宇治陵総拝所です。
 
 同母兄弟姉妹がそうそうたる人物になれたのは、940年に安子13歳で成明親王(後の村上天皇)と結婚し、
承子内親王(ショウシ)(948~951)4歳で没
憲平親王(ノリヒラ)(950~1011)後の冷泉天皇
為平親王(タメヒラ)(952~1010)
輔子内親王(ホシ)(953~992)伊勢斎王
資子内親王(シシ)(955~1015)
守平親王(モリヒラ)(959~991)後の円融天皇
選子内親王(センシ)(964~1035)12歳から57年間賀茂斎院
を産んだからです。
 写真は宇治陵4号へ通じる道、民家の間で分かり難い所ばかりに有ります。
 
 安子は末娘選子内親王を産んですぐに、37歳で亡くなっていますが、藤原北家から来た先代の穏子と安子の二人が、高齢になるまで沢山の子供を産んだことが、藤原北家の男たちに外戚としての地位を授けて、繁栄させたと言えます。
 丈夫で多産の娘を持った者が、偉くなって日本の政治を動かしていったという、平安時代の物語なんですね。
 左京区吉田の狭い道を歩いていて、突然新しい門を見つけました。

 
 この安子さん、嫉妬深い性格と言うか、気のきつい女の人だったようで、夫(天皇)が寵愛した藤原芳子(ヨシコ)があまりにも美人だったので、悔しくてかわらけを投げつけたり、それに立腹した天皇が、安子の兄弟たちを謹慎にすると(安子自身を怒るのは浮ゥったのですかね)、天皇に詰めよって、これを撤回までさせたそうです。
 塀の左から、少し内部が見えました。
 
 安子の陵は、やはり藤原北家の皇后たちが集まってる宇治陵(宇治市木幡)にまつられていますが、左京区吉田の橘井寮辺りで、他の陵墓を捜してる時に、かなり立派な塀に囲まれてる安子火葬塚(左京区吉田泉殿町)を見つけました。
 隣が更地になっていたので、右側からは全部見えました。
村上天皇皇后安子火葬塚です。
     返事
花水木さん:いつも替え歌を褒めてもらえるので、
    単純で褒め言葉にめっぽう弱い私は、うれしいです。
    NOTEを知りましたが、上手に登録できません。
    もう少しお待ちください。

コメント (1)
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