島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

63-2冷泉天皇皇后昌子内親王

2020-05-22 | 天皇陵巡り
 
 京都市左京区岩倉には、最近は「床もみじ」「床みどり」でよけい有名になった岩倉実相院があります。
 
 私はこの近くの病院の入院患者のちょっとした外科処置を頼まれて、週2回ほど仕事をさせてもらっています。(新型コロナでこの1ヶ月は、出勤停止中ですが)
近くの関連施設からも時々呼ばれて、この磐座神社(イワクラジンジャ)の左側の石段を登って行ってます。
 
 この施設の3階から、畏れ多くも御陵が見下ろせます。
秋の紅葉はなかなかのものです。
 
 第61代朱雀天皇が譲位した4年後、姪でもある女御の煕子女王(キシ)(朱雀の兄保明親王の娘)に産ませた唯一の娘が、この御陵の主 昌子内親王(マサコナイシンノウ)(950~1000)です。
 
 母の煕子女王は出産で亡くなり、父朱雀上皇も亡くなったので、昌子内親王は叔父第62代村上天皇の手厚い庇護の下に育ちました。
 季節は変わっても、やはり施設から見下ろした写真です。
 
 14歳同士で、叔父村上天皇の皇太子憲平親王(ノリヒラ)(950~1011)に入内しましたが、子供には恵まれませんでした。
憲平親王が第63代冷泉天皇となり、昌子内親王は皇后になりましたが、男子を産んだ藤原家の他の女御、懐子(カイシ)・超子(チョウシ)に遠慮して、内親王ではありましたがつつましく過ごされたそうです。(奇行の多い夫冷泉天皇を避けた説もあります)
 
 和泉式部は昌子内親王に仕えていたと言われてますが、有名なのは紫式部と一緒に彰子(ショウシ)に仕えていた方ですよね。
 
 御陵近くにある看板ですが、昌子内親王は仏教を篤く信仰し、ここ岩倉に観音院・大雲寺を創建されたので、この寺に土葬されたようです。
岩倉陵(イワクラノミササギ)(左京区岩倉)は観音院跡に、明治17年に治定されたものです。

       返事
花水木さん:人を見たら感染者だと思え、
    っていう世界は嫌ですね。
    これでは当分祭りやスメ[ツはダメですね。
大雪男さん:人と人とが接触しない、
    以外の方法で、新型コロナと共存したいですね。
和さん:ビッツンナカの意味は判りません。
     シフォンさんやコーヒーブレイクさんの五島の写真には、
    私もいつも癒されています。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする