島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

金沢旅行1

2017-07-12 | 
 
 ちょっと前の、いつもの日帰りではなく、少し足を延ばして金沢までの一泊旅行です。
 ゆっくり行こうと、久しぶりに越前海岸をドライブしました。
礫岩が風と波の浸食作用でくりぬかれた洞穴、呼鳥門(コチョウモン)も久しぶりです。
この洞穴、高さ15ⅿ・幅30ⅿあるそうです。
  
 すぐ近くにトンネルが出来ていましたが、確か以前来た時は、国道がこの洞穴の中を通っていて、車で抜けたような気がします。
トンネルの銘板を見ると、2002年完成のトンネルでしたので、このトンネルが出来た15年以上前に、何度も来ていたのですね。
  
 海岸沿いの温泉もある道の駅で昼食。
刺身の5種盛りパックと揚げたての沢山のアジフライを買って、ご飯セットを1椀だけ頼んで、二人で1300円の美味しい昼食でした。
 次の三国の道の駅でお土産買って、レジのお嬢さんに美味しいケーキ屋さんを尋ねて、そこへ行って、のんびりと緑の田んぼを見ながら、二人で昼食と同じぐらいの値段のケーキとコーヒー。
  
 これまた久しぶりの東尋坊にも寄りました。
昔はもっと崖が高かったような気がしてなりません。
しかし、ここは崖の縁に柵がほとんどないので、最近とみに足元が危うくなっている私は、あまり縁の方には行かなかったので、そのせいかもしれません。
   
 平日で天気もあまり良くなかった為か、東尋坊の観光客は少なめでした。
鳥取はスナバ、ここはスタバではなく、イワバ(岩場)でした。

     返事
花水木さん1:お互いおめでとうございます!
     確か落語家か一般人かのどちらかの息子さんも、おめでとうでしたよね!
和さん:灯台を最後に見た若者達を思ってウルウルしたのでなく、
    私は自分自身の懐かしさだけで涙目になった、自分勝手な男です。
花水木さん2:私は左上でも右上でも、
    全く手は背中で繋がる気配はありません。
    前屈しても、指先はせいぜい膝下です。
大雪男さん:ドローン?で海側から断崖を写していたので、
    私は「ああなってるのか」と、それなりに納得していました。

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12≠R景行天皇皇子 日本武尊の4番外

2017-07-08 | 天皇陵巡り
  
 以前熱田神宮に行った時に、その横にもう一つの日本武尊の白鳥御陵を見つけてしまいました。
熱田神宮駅から少し歩いて、白鳥古墳と本居宣長歌碑の道標が目印です。
   
 民家の間の狭い道を通って行くと、6世紀初めころの全長74ⅿの前方後円墳が、かなり削られたまま残っていました。 
 伊吹山で亡くなった日本武尊は、その地能褒野から奈良の琴弾原、そして大阪古市の白鳥陵にと、次々白鳥になって飛んでいったのですが、最後ミヤズヒメが恋しかったのか、この熱田の宮近くに飛んできて、降り立ったのがこの陵だったとのことです。
   
 拝所も作られていましたが、どうもここは宮内庁公認の指定陵ではないようで、番外になりそうです。
  
 白鳥山法持寺の裏に残る小山がこの陵です。
この寺は30年間名古屋場所の三保ヶ関部屋の宿舎になっていたので、北の湖の記念碑がありました。
また、ここは東海道の道筋でもあったので(最近のブラタモリでやっていた、七理の渡しの船着き場に近い)、芭蕉や若山牧水の歌碑もありました。
   
 日本武尊、古事記最大級の英雄だと思っていましたが、武勇伝としてなら、何故天皇にも成れなかった皇子の日本武尊を主人公にしたのか、景行天皇の武勇記にしなかったのか、不思議に思います。
 また武勇記といっても、実の兄を平然とちぎって殺したり、女に化けたり、剣を木刀に替えるなど、マッチョの笹野高史のコマーシャルではないですが「ひっきょうだろう!」という手を使って征伐したりしています。
また、女の身代わりで難を逃れたり、計略にはまった時も人から貰ったもので助かったり、最後は伊吹山の神をあなどったために衰弱して、なんか英雄らしからぬ死に方をしています。
 それほど勇ましくない英雄伝を、こんなに長く記述した古事記や日本書紀の意味合いがなんか分かり難い、4回(四つも陵があったので)の日本武尊の話でした。
                     やっと終了

    返事
花水木さん:介護での尻拭き、
    トイレで用を足せる人は短時間なら立位可能なので、
    介護の人は立たして後始末をされていますよ。
和さん:自動水洗機能に慣れると、外でトイレを出た後、
    流したかどうか不安になって、戻って確認するときあります。
     1週間ほど前にTVで大瀬崎灯台を30分ほどやってました。
    懐かしくて、単に灯台が写ってるだけなのに、涙目になっていました。
    五島の皆さんにもよろしく!!
大雪男さん:私は体が固く、背中はまったくかけません。
    前に屈んだぐらいでは、手は肛門に届きませんよ。

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12≠R景行天皇皇子 日本武尊の3

2017-07-05 | 天皇陵巡り
  
 九州の熊襲退治から帰るやいなや、日本武尊は父景行天皇の命で、東国の蝦夷征伐に旅立ちました。
前回書いたように、伊勢で叔母に愚痴を述べていましたが、尾張ではちゃっかりミヤズヒメをナンパして、結婚の約束もしています。
 相模の国では、国造(クニノミヤツコ)に誘いだされた日本武尊は、野原で火に囲まれた時、叔母に貰った草那血?クサナギノタチ)で草を薙ぎ払い、貰った嚢から火打石を取りだして向火を付けて難を逃れました。
その後は逆に国造一族を滅ぼして、その地に火を付けて焼き払ったので、この土地を焼遺(ヤキヅ)と言うそうで、今の静岡県の焼津の地名の由来になりました。
  
 東国征伐で他の有名な話は、一行が浦賀水道を船で渡っている時に、急に暴風雨に襲われ、その時突然一行に加わっていたかの如く出てきた后のオトタチバナヒメノミコトが、身代わりとなって入水し嵐をおさめたそうで、その場面を日本画で見たことがあります。
 また、オトタチバナヒメノミコトの死を日本武尊は嘆いて、「あずまはや」(ああ我が妻は)と言ったので、この辺りの国を「あずまの国」と言うようになったそうです。
  
 三つ目の日本武尊の墓 白鳥陵古墳(前の山古墳)は、長さ190ⅿの立派な前方後円墳で、古市古墳群の一つで古墳時代後期の築造です。
 前回の奈良県御所市の琴引原白鳥陵から飛び立った白鳥は、ここ大阪府羽曳野市まで飛んできてここに降り立ち、陵となりました。
今までの日本武尊の三つの墓を合わせて、白鳥三陵と言うそうです。
   
 大きな周濠もある立派な前方後円墳の白鳥陵(シラトリノミササギ)、天皇でもなく単なる皇子なのに、前回の御所市とここだけは墓ではなく、例外的に 陵 と書いてありました。
  
 拝所の周りは綺麗に整備されていますが、普通の新しい家がすぐ近くまで迫っていて、路地を抜けていくような感じです。
さすが大阪郊外、土地は有効活用されています。
 この東国征伐の後尾張に帰った日本武尊は、行きにナンパしたミヤズヒメが生理中でもあるのに寝所に入ったり、もひとつ意味不明の事があったりした後、伊吹山で神のたたりがあったように死にました。
                   もう一回続く

      返事
花水木さん:同時に出たから自分は外人と思わず、
    遠慮してハーフと言うところに、花水木さんの謙虚さが出ていますね。?
     格調高い私からの疑問ですが、
    私は腰を便器から浮かして中腰でないと、尻を拭けません。
    座ったままではどこから手を入れていいのか、隙間がないからです。
    それをおかしいと言う人がいます。
     皆さんは大便後尻を拭く時、洋式便器から腰を浮かして拭きますか?
    浮かして拭く派の私は、我が家の新しくなった自動洗浄トイレだと、
    拭いてる間に水が流れ出して、いつもあせっていますよ。
和さん:謙虚な人と格調高い人との鰍ッ合いを、
    楽しんでいただいている和さんは、どんな人ですかね?
大雪男さん:立ってしても、排尿後のすっきり感乏しくなっています。
     今の阪神の味方は、雨だけです。

コメント (2)
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12≠R景行天皇皇子 日本武尊の2

2017-07-03 | 天皇陵巡り
 
 三重県亀山の能褒野墓に葬られた日本武尊(ヤマトタケル)は、八尋もある大きな白鳥になって大和の方向に飛んでいって、ここ奈良県御所市の琴弾原(コトヒキノハラ)に留まったそうです。
 民家の間の道にある看板に沿って左に曲がります。
   
 この民家の塀沿いの坂道を上がった所が、白鳥陵(シラトリノミササギ)と書いてあった二つ目の墓、日本武尊琴引原白鳥陵でした。
  
 今までの陵や墓と違って、ここの拝所は質素でしたし、宮内庁の看板も立札のみです。
 前回書いたように、九州でクマソを退治して日本武尊となったヲウスノ命は、帰りに出雲に寄りました。
ここで武勇を誇る出雲建(イヅモタケル)と友達になったふりをして、お互いの剣を交換し(自分の剣は木刀に替えた後にです)、その後太刀合わせを申し出て、相手が交換した日本武尊の木刀でまごまごしてる間に、相手から交換された太刀で切り殺してしまうという、またまた卑怯な手で出雲建を退治したそうです。
   
 大和に帰ったとたんに休む間もなく、またもや父の景行天皇から、今度は東国征伐を命じられた日本武尊は、伊勢で叔母のヤマトヒメに父の薄情さを嘆き、今度は草那血?クサナギノタチ)と嚢(フクロ)を貰って東国へ出発しました。
                     続く

    返事
花水木さん:ボケてきたのか計算できなくなっていますね。
    本文も訂正しました、ありがとうございます。
     息子が二人とも下宿で家を出てからは、
    トイレを汚すのを息子のせいに出来なくなって、その頃(50過ぎ)から座っています。
    最初の頃は、一緒に便が出ていましたが、今は小便だけ出来るようになっています。
    しかしながら、そうしてからは男としての能力が低下していったような気がしますので、
    若者には座位はお勧めできません。
和さん:今城塚古墳が高槻でしたね。
    本文も訂正しています、ありがとうございました。
大雪男さん:つま先を上げてみましたが、効果は不明確ですよ。

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