島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

112-4霊元天皇皇子済深親王

2022-10-05 | 天皇陵巡り

 山科醍醐での仕事帰りに20分程歩いて、久しぶりの天皇陵巡りです。

 昔は東海道線が横を走っていた、伏見深草と山科を結ぶ大岩街道沿いの、事前に宮内庁管理陵墓の探訪記録のブログ「新陵墓探訪記」で調べておかないと絶対に見つからない、写真の横道を入って行きました。

 細い横道に入ってすぐに小さな南谷橋を渡り、100ⅿぐらい歩いただけで、なんかそれらしいものが見えてきました。

 夕方で少し暗くなってきてましたが、霊元天皇皇子済深親王墓以下二墓一塔のある勧修寺宮墓地(カジュウジノミヤボチ)(山科区勧修寺南大日)です。

 権大納言小倉実起(オグラサネオキ)の娘(中納言典侍)が産んだ、第112代霊元天皇(1654~1732)(在位1663~1687)の第1皇子が今回の済深親王(サイシンシンノウ)(1671~1701)です。

 近くの女官にすぐ手を出してしまう霊元天皇には、父母だけでなく朝廷や徳川幕府も認めた正妃鷹司房子がいましたが、皇子は産まれませんでした。 

 房子に皇子が出来なかったら、第1皇子の済深親王が次期天皇になることは暗黙の了解だったようです。

しかし、他の女官と違って霊元天皇自身が選んだ寵愛の松木宗子(ムネコ)が産んだ、第4皇子朝仁親王(アサヒト)を次期天皇にしたかった霊元天皇は、第1皇子済深親王を無理やり出家させ、文句を言った外戚小倉一族を佐渡に島流しにしてしまいました。〘小倉事件1681年〗

 東に面した勧修寺宮墓地の正面に廻りましたが、暗いためストロボを焚いて撮影した制札と門です。

 出家させられ勧修寺(カジュウジ)に入った済深親王、次期天皇になった異母弟より特に自出が低いわけではなかったので、残念だったでしょうね。31歳で没し、ここ勧修寺宮墓地に葬られています。

 最近新しくしたような低い土塀の南側から内部が見渡せました。

門から正面にある大きな石塔が済深親王の墓です。

 近くの母にあたる中納言典侍の墓は、暗くなってきて怖くなったので,探すのはやめました。

コメント (8)
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