いろんな本を読んだんだけど、プロレタリア文学といわれる小林多喜二や住井すゑの“橋のない川”なども読んで、社会の底辺に暮らす人々、差別を受ける人々について深い思い入れを持つようになりました。
森村誠一の作品もその一例でしょう。
中学から高校の読書は、ボクの思想面のベースになったように思っています。
戦争や暴力や差別を厭(いと)い、平和を願う、“ごろつきにきびしく弱者にやさしい”世界を望んだのでした。 . . . 本文を読む
小学3年の頃でしょう、図書室にいたら、ある女性教師が「本物の小説を貸してあげる」と言って、“小鹿物語”ってアメリカの児童文学小説を差し出すんです。
図書室の本ではなく、彼女の私物でした。
ボクは喜んで借り読み始めたんだけど、児童書とはいえ本物の児童書はボリュームもあり、当時のボクにとっては少々難解なものでした。
なんとか読み終えましたが、本物の小説って難しいな、って思った記憶があります。
その後 . . . 本文を読む
ボクの唯一の趣味である読書について、ボクの読書の歴史?を記します。
小学校にあがる前、腹ばいになって絵本を読んでいた記憶があります。
昔のことですから“こぶとりジィさん”とか“いじわるバァさん”なんてのを見てたんでしょう。
今から61年前の小学校入学時に、親がボクに“世界こども物語集”(名は定かではありません)ってのを入学祝いに贈ってくれたのです。
海外の著名な児童書や偉人伝を、小学生低学年生 . . . 本文を読む
ボクは44年前、この地・滝川に来ました。
実はここに来る前まで、砂川・滝川・深川の位置関係を知りませんでした。
大雑把(おおざっぱ)に、札幌と旭川の間に川と名のつくマチが群れている、程度の認識でした。
どこも農業が主体のマチ、とは知っていましたが、人口の多少など知る由もありません。
そもそも札幌より南に住む人たちにとって、札幌から北って人の住むところではない、みたいに失礼な思いがあったものです。
. . . 本文を読む
アメリカでは50年も前から標準的だったAT(オートマ)車ですが、日本での普及はずいぶんと遅れたのです。
日本のカーメーカーは大昔からアメリカへの輸出用にAT車を量産していましたので、モノに事欠くことはなかったのに、日本のカーオーナーはMT(マニュアル)車に固執していました。
まず、AT車はMT車に比べ数万円高かったのです。
でもMT車からAT車に切り替わらなかった主因は、AT車に対する信頼を持と . . . 本文を読む
昔の車の思い出シリーズに戻ります。
21歳になってから運転免許を取得したのだけど、取得後すぐに運転手のアルバイトをしました。
このブログの学生時代シリーズで記した記憶があるんだけど、ペテン・ペンキ屋でのアルバイトでした。
ボクが免許を取ったことを知った友人から連絡があり、運転手兼ペンキ職人のアルバイトがあるからどう?って聞くのです。
そのペンキ屋のことは前々から、インチキなことを聞かされていま . . . 本文を読む
16歳で軽自動車運転免許を取り損なったボクですが、18歳になってすぐに免許を取ったのではありません。
いろいろ忙しかったり?して、結局免許を得たのは21歳の時でした。
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19歳のとき、定山渓のホテルで8ヶ月ほどバーテンのアルバイトをしていました。
昼間はヒマなもんだからロビーで新聞を読んでいたんですが、ある時ホテルの社長が「おいバーテン、ちょっと車を動かしてくれ」と言うのです。
ホテルの車 . . . 本文を読む
カーメーカーの完成検査の不正が相次いで発覚し、大きな問題になっています。
何十年も前からの不正なんだそうです。
不正をしていることを知っている関係者は何万人もいるんだろうに、今までバレなかったことが不思議です。
もっと早くに誰かがバラしていたら影響は少なくて済んだのに、と思うと情けないです。
・・・
当時、完成検査が正常に行われていたかどうかはわかりませんが、昔の自動車の性能は悪かったものです。 . . . 本文を読む
昔の"車の思い出"をシリーズで記します。
50年も昔ですが、軽自動車運転免許ってあったんです。
知らない人って多いのだと思いますが、16歳で受験し取得することができました。
ボクが16歳の高校2年のとき、その免許が廃止にになったのだけど、ボクは最後の軽自動車運転免許を受験したのです。
結果は落っこちてしまいましたが、てっきり受かるとばかり思い込んでいたものだから、落胆しました。
だって、その後2 . . . 本文を読む
前回、気味の悪い高校野球の開会式の入場行進のことを記していて、昔のことを思い出しました。
ボクは幼少の頃から団体行動が嫌いでした。
小学生の時の運動会の練習を思い出します。
まず行進の練習です。
みなが揃(そろ)って歩くことから始まり、気を付け、回れ右、右向け右、などナンセンスなことが延々と続くのです。
昭和30年代ですから、教員に軍隊上がりのがいたり、軍隊上がりでなくとも戦前・戦中の軍国教育を . . . 本文を読む
今回も小学生の頃の思い出ですから、昭和30年代(1960)の頃です。
1週間に一度くらいでしたでしょうか、串に刺したツブを行商しているおばさんがいました。
30kmほど離れた漁村から来ている、と言っていた40代か50代のおばさんでした。
ツブは小粒のものでした。
海でツブ籠で獲り、醤油で煮て、殻から身を取り出し、竹串に刺されています。
たいそう手間がかかっていたんだと思います。
そしてそれは、た . . . 本文を読む
ボクが18才まで暮らしていたのは、海から3kmほど離れたところにある戸数数百戸の小さな集落です。
国鉄駅前に20軒ほどの商店街がありました。
その中に2軒の魚屋さんがありました。
その魚屋さんをイサバヤさんと呼んでいました。
きっと東北がどこかの方言だと思います。
店主が市場か漁師から直接仕入れた魚介を店頭で売っていました。
ボクの住んでいた集落は人は少ないけど奥行きが結構深く、数km離れたとこ . . . 本文を読む
ボクが幼少の頃、夏から秋にかけて早朝“イカ売り”のおじさんが自転車でイカを売っていました。
ボクの住んでいたのは海岸から3kmほど離れていましたので、近所に漁業者はいません。
漁師が自転車の荷台に木箱を載せ、獲れたばかりのイカを行商していたのです。
1パイ5円か10円だったのでしょうか、母が買って朝食のおかずの刺身にしていただきました。
毎日来るのではありません。
何日かおきでした。
そしてその . . . 本文を読む
ボクが昔 住んでいた家のすぐ裏は、精米所でした。
ボクが小学生の頃、その精米所に闇米(やみごめ)を買いに来るおばさん集団がいました。
毎日のように数人が大きな風呂敷の様なのを背負い、国鉄駅からの数百mを歩いて来ていました。
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米は戦前から配給品の扱いをされました。
そして生産者である農家には、米の供出の義務を課したのです。
配給される米の量は少なかったのです。
おなかを満たすのには、ムギ . . . 本文を読む
先の糞尿譚シリーズの(1)は昔の思い出を語ったものです。
途中、下賎なモノが邪魔をして中断しましたが、今回からは昔の思いでシリーズ再開です。
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洪水時の糞尿排出を記していて思い出しました。
そして昨日の台風18号による強風と大雨です。
ボクが小学生になるか、なる前かです。
大雨が降って近くの川が増水しました。
近所の人が皆 橋の上に集まり、洪水の様子を見物です。
幼少のボクは、洪水の迫力 . . . 本文を読む