♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■星に導かれて -3 / 大嶋重徳

2016年12月20日 | Weblog
2016/12/20放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書には、イエス・キリストの誕生の際に、東の方からやって来た博士たちの物語が記されています。

すると博士たちがエルサレムに来て目にしたのは残虐なヘロデ王と恐れ惑うエルサレムの人たちだったのです。実は聖書の舞台のイスラエルでは、旧約聖書の預言に従って時代に不満を持つ人々がメシア待望論の声を上げることがたびたびありました。しかしメシアを待ち望むとは、王よりも上の存在を持ち望むということを意味します。このメシア待望説が国中で起こって来るとき、残虐なヘロデ王は敏感に反応し、すぐさま恐怖政治を行うだろうと予想されたのです。きっとまた誰か死ぬことになる。それが人々が恐れ惑った心境だったのです。

 更に人々だけでなく神殿に仕える祭司たちもヘロデの顔色を窺っていました。だからこそ彼らはベツレヘムでキリストが生まれることを突き止めていてにもかかわらず、誰もベツレヘムに向かおうとしなかったです。それは下手に自分がキリストの誕生を確認したりすると、ヘロデは私を殺すかもしれない、と恐れたのでしょう。そしてヘロデ王が「行って幼子のことを調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」と言うのを聞いて、ヘロデ王と同じ態度に出る方が得策、そう空気を呼んだら祭司・学者たちは誰一人ベツレヘムに行こうとはしなかったのです。つまり、聖書のことばよりも、王の気持ちに彼らの心は向いていたのです。

 イエス・キリストはイエス・キリスト生まれるコトを待ち望んだ人達に迎えられたのではなく聖書の預言のことばよりも大野気持ちを優先する人達がたくさんいる時代の中でキリスト大盛りなったです。むしろイエス・キリストに就くよ待ち望んでいた博士たちの方がこのエルサレムにあって空気の読めていない生き方だったのです。2人でクリスマスに友達を効率を過ごすことよりも教会の礼年に行くことも空気の読めていない生き方なのかもしれません。しかしイエス・キリストは時代の空気を読むことよりも青春のことばに従って生きる私たちを喜んで迎えてくださいます。にイエス・キリスト生きるとはむしろ日との産めを畏れて生きる生き方からあなた開放されてイエス・キリスト生きる人生と歩いていくこととなるのです。

  ( PBA制作「世の光」2016.12.20放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■暗闇を照らす光 / 関根弘興

2016年12月19日 | Weblog
2016/12/19放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今週もクリスマス・スペシャルとしてお届けいたします。

 新約聖書ヨハネの福音書1章4節と5節に、
 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
 このように記されています。

 「この方」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは闇を照らすまことの光として来てくださったのだと聖書は伝えています。そしてこのことは私たちに三つのことを教えてくれます。

 第一は、光というものはありのままの姿を照らし出すということです。埃だらけの部屋を真っ暗にしていれば埃があることすら分りません。しかしそこに明かりが灯されたらその汚れた部屋はそのまま明るみに出される訳です。イエス・キリストは光なる方ですので、あなたの汚い部分も照らし出して行くのです。それはあなたにとって辛い現実となるかもしれません。自分の弱さや穢れというものは隠したいものです。しかし光なるキリストはあなたの心の中を照らしていくのです。しかしこれこそ新しい人生の第一歩となるんです。

 そして第二は、光はあなたの汚(よご)れを綺麗にするということです。光なる方として来てくださったイエス・キリストは、あなたの汚い罪を取り除き、清め、赦してくださる方なんです。

 イエス・キリストが来られた目的は何でしょう。それは私たちの罪を背負って身代わりとなって十字架についてくださることでした。あなたの罪を身代わりに背負い、あなたに罪の赦しの道を届けるために来てくださったんですね。

 そして第三は、光はあなたの道を照らす光となるということです。イエス・キリストは十字架につけられましたが、三日目に復活され今も生きておられる、と聖書は教えています。イエス・キリストによって自分が照らされ罪が赦されたならば、この復活の主と共に歩んで行くのです。

 イエス・キリストは、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ 8章12節)と言われました。そしてイエス・キリストは、「わたしはあなたを捨てて決して一人ぼっちにはしない」(ヘブル 13章5節参照)と約束してくださっているのです。イエス・キリストはあなたの道を照らすまことの光です。そしてあなたと共に歩んでくださるのです。

 このキリストと共に新しい出発をこのクリスマスからスタートしませんか?

(PBA制作「世の光」2016.12.19放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■私を贖う方キリスト / 羽鳥頼和

2016年12月17日 | Weblog
2016/12/17放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書のヨブ記にあるキリストの預言についてお話しします。

 ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。そんなヨブの所に3人の友人がやってきました。ところが友人たちとの語らいは議論になってしまいました。そして解決のないまま、とうとうヨブと友人の議論は終わってしまいました。するとやっと神がヨブに語りかけられたのです。

 ヨブ記の41章で、神は恐ろしい怪獣のことを話されました。
 「そのくしゃみはいなずまを放ち、その目は暁のまぶたのようだ。その口からは、たいまつが燃え出し、火花を散らす。その鼻からは煙が出て、煮え立つかまや、燃える葦のようだ。」(18節~20節)
 まるでゴジラのようですね。

 神はヨブに、このゴジラのような怪獣を自分の力で御することができるか、と詰問します。
 「ヨブよ。おまえは自分が正しいと言って、それなのにこんな苦しみに遭うのはおかしい、と言う。そして神が間違っていると言っている。それは自分を神と同じ偉大なものとしているようなものだ。それなら神が作ったこの怪獣を御してみなさい。」

 そのことを聞いたヨブは恐れて神に言いました。
 「私が間違っていました。わたしは傲慢になっていました。私は塵と灰の中で悔い改めます。」(ヨブ記 42章6節参照)
 自分自身の愚かさを知ったヨブは悔い改めました。

 そんなヨブは以前から神の救いを待ち望んでいました。そして神と自分との間に仲介者としての救い主が与えられることを確信していました。ヨブは言っています。
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。」(ヨブ記 19章25節)

 この「私を贖う方」こそイエス・キリストです。ヨブは苦しみの暗闇の中で一筋の光である救い主を見たのです。そして救い主を通して与えられる神の救いを期待しながら苦しみを耐え忍んだのです。それだけではありません。苦しみの中でもヨブは救いを与えてくださる神を誉めたたえたのです。

 明日は日曜日です。救いを与えてくださる神を誉めたたえるために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.12.17放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ひかりは闇の中に輝いている / 岩井基雄

2016年12月16日 | Weblog
2016/12/16放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。
 町にクリスマス・ソングが溢れ、クリスマス・デコレーションの美しい季節になりましたね。キリストの誕生を祝うクリスマス。なぜ全世界で祝うのでしょうか。聖書はキリストが神の御子であり、全世界を創造された方だと語っています。そして私たちの心の闇また世界の闇に光といのちを与えるためにキリストはこの地上に来てくださったのだと語っています。

 私たちの理解の範囲を超えるような表現ですが、キリストの弟子の一人ヨハネがその事を明確に表現しています。その箇所をお読みします。「ことば」と表現されている方こそキリストのことです。
 「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
       新約聖書 ヨハネの福音書 1章1節から5節

 ヨハネは注意深く、キリストが神であり世界の創造主であり、人に真のいのちを与える方であり、その光は闇の中に輝く、と語りました。人間の心には確かに闇があります。人を憎み妬む自己中心の罪の闇が私たちの心にはあるのです。しかしその闇を照らし、その心を輝かせるために、まことの光であるキリストは来てくださったのです。

 光には主に四つの働きがあります。照らし、温め、導き、育てることです。キリストの光は私の心を照らし、心の闇や罪の姿を明らかにします。しかしキリストは私の罪の裁きを身代わりに受け、死を経験するために肉体をとってこの地上に来てくださったのです。ここには無条件の愛があります。それゆえこの光は私の心を愛で温め、正しい道へと導き、弱い私たちの心を育て成長を与えてくださるのです。あなたのためにキリストはこの地上に来られました。あなたも自分の心の闇・罪を認め、愛と命を与える救い主キリストを心に迎え、その愛によって輝く人生を歩み出しませんか?

  (PBA制作「世の光」2016.12.16放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■いのちがあった / 福井 誠

2016年12月15日 | Weblog
2016/12/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「いのちがあった」です。それではヨハネの福音書1章4節、5節を読んでみましょう。

 「 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

 聖書は、イエスにいのちがあった、と語りますねえ。聖書でいのちという場合には、少なくとも二つの意味があります。

 第一にそれは、逆説的な言い方ですが終わりのないいのちです。イエスのいのちは長く続くいのち、永遠のいのちですね。イエスは昨日も今日もいつまでも変わることがありません。尽きることも色褪せることもなく、枯れることもなく、永遠に続くいのちを持っておられます。イエス様はそのいのちを私たちと分かち合うことができます。どうでしょうか、そのような永遠に続くいのちを自分も持ちたいと思う人は多いことかもしれませんね。

 しかし一方でただ長いだけのいのちなんてもらってもしょうがないなと思う人もいるでしょうねえ。このままの余りぱっとしない退屈な人生が長く続くのもなあ、と。それに弱さを抱えて愚かな自分の現実を覚えるときに、このままでずっと生きていくなんて、それも大変だなあと思う人もいるでしょう。

 そこで第二に、イエスにいのちがあったというときに覚え欲しいことは、そのイエスのいのちはただ長いというだけではないってことです。それは私たちの人生に新しさをもたらす力あるいのちです。私たちの弱さを補い、愚かさを賢さに変え、人生の方向性を実りあるものに変えていくいのちですねえ。

 そのようないのちを持つお方であるからこそ、イエスは人類の希望であり光なのです。そしてそのいのちは力強いので、どんな闇もこれを覆い尽くすことはできません。闇を打ち破る力ある命をイエスは私たちと分かちあってくださる、とヨハネは聖書を通して語っているのです。

 イエスの降誕を祝うクリスマスの日が近づいておりますが、ぜひこの機会に教会を訪ねて、イエスにあるいのちがどのようなものなのか、更に詳しいメッセージを聞いてみませんか? 一度限りの人生、素晴らしい人生の可能性に心を留めていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.12.15放送でのお話より )

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

このサイトは URL名として 
http://yonohikari.biblica.info 

が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■星に導かれて -2 / 大嶋重徳

2016年12月13日 | Weblog
2016/12/13放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。
聖書には、イエス・キリストの誕生の際に、東の方からやって来た博士たちの物語が記されています。
東から来た博士たちは長い時間をかけてエルサレムにたどり着きました。そして町の人に聞いたのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか? 私たちは東の方でその方の星を見たので拝みに参りました。」 彼らはここに来れば既に聖書のことばに従ってユダヤ人の王の誕生を喜んでいる人たちがたくさんいるだろうと考えていたことでしょう。しかしエルサレムには誰一人、メシヤの誕生を祝っている人はいなかったです。エルサレムにいたのはギラギラとした目で「行って幼子のことをさ詳しく調べ、分かったら知らせてもらいたい。」というヘロデだけだったのです。

 実はこのヘロデという王は政治的に非常に有能な人物で、この国で農業と商業を発展させ、ユダヤ人のためにものすごく豪華な神殿を建てます。それと同時にヘロデは自分の王位を脅かす者には容赦せず、十人いた妻の半数以上、更に二人の自分の子どもも殺害するほどの残虐性がありました。ヘロデにとってメシヤ誕生の知らせは自分の王位を脅かす存在として映っていたのです。

 やがてメシヤ誕生の知らせを告げずに自分の国に戻った博士たちに怒ったヘロデは、ベツレヘムとその近辺の二歳以下の子どもたちを皆殺しにします。そういうことを平気で行う恐怖政治をヘロデはこの時代に行なっていたのです。実はイエス・キリストが生まれた時代は恐怖に満ちた王のいる時代だったのです。

 なぜキリストは平和な時代に安全に生まれて来なかったのでしょうか。それはイエス・キリストが暴力と争い・混乱に満ちた時代に、平和をもたらす救い主だったからです。暗い時代の中でキリストは「平和の君」と呼ばれます。平和を生み出すためにイエス・キリストはこの地上に来られたのです。

 そして今も戦争が絶え間なく起こるこの時代の中で、私利私欲に満ちた権力者の横暴さが溢れていたとしても、神は真っ只中にご自身の独り子をこの世に送り出される神です。争いのない時代に生まれて来る救い主ではなく、争いのあるところに平和をもたらす救い主として、私たちも争いのただ中であったとしても、キリストを待ち望むクリスマスを過ごしたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2016.12.13放送でのお話しより )

******


さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのもいいんじゃないかなあ。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。


******
このサイトは URL名として  http://yonohikari.biblica.info  が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■暗闇に光 / 関根弘興

2016年12月12日 | Weblog
2016/12/12放送


 世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか? 関根弘興です。
 今週と来週はクリスマスのお話をいたします。

 新約聖書マタイの福音書4章16節に、
 「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 と書かれています。

 これは、救い主イエス・キリストが暗闇に覆われている真っ只中に来てくださる、という約束のことばなんです。クリスマスは光が溢れる時ですね。悲しみや弱さ、恐れや絶望に包まれているその真っ只中に光が差し込む時です。生きる勇気と希望が与えられる、そんな出発となる時です。どんな暗闇の中でも、そこに光があれば進む道が分り、歩み出すことができます。

 あなたの人生はどうでしょう。あなたは自分がどんな存在で、どこから来て、どこへ向かって進んで行こうとしているのか、分かっていますか? 実は聖書は、人はみな闇の中を歩んでいるのだ、と教えています(伝道者の書 5章17節、マタイ 6章23節参照)。

 その状態の一つは、迷うという姿です。あなたは迷子になったことがありますか? 迷子になると不安になりますし、心細いです。駅で迷子になったら駅員に行き先を告げればすぐに教えてくれるでしょう。しかし人生に迷っているとき、一体誰が道を示してくれるのでしょう。ああ、自分はどこへ行くのか分からない! 自分は本当に価値ある存在なんだろうか? 自分は愛される存在なのだろうか? あなたは自分自身に迷い、行くべき道を見失い、迷っているような、そんな状態ではありませんか? 

 そしてもう一つは、失うという姿です。本来、人は生かされている喜びや感謝があっていいはずです。しかし出て来ることばは「当たり前」。そしていつか希望を見いだすことができず、愛が失われ、喜びが失われ、その代わりに虚しさだけが増えている。本当に大切な生きることの意味や目的を失っているということがありませんか? 人は自分自身を正直に見つめるなら、誰も人生を導く光なる方を欲しているのです。

 イエス・キリストは、「やみの中を歩く者は、自分がどこに行くのかわかりません。」(ヨハネ 12章35節)、と言われました。あなたは自分がどこに行くか、分かっていますか?

 クリスマス。それはあなたの人生を照らすまことの光であるイエス・キリストが来てくださった喜びの日です(ヨハネ 1章9節参照)。そしてあなたが今、イエス・キリストに心を開くならば、イエス・キリストはあなたの心に来てくださるのです(黙示録3章20節参照)。
(PBA制作「世の光」2016.12.12放送でのお話しより)

***

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでも、ちょっときてみました、いいですか? と言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■創造主は救いの神 / 羽鳥頼和

2016年12月10日 | Weblog
2016/12/10放送


 世の光の時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。
今日は旧約聖書のヨブ記37章からお話しします。

 ヨブ記の主人公であるヨブは大きな苦難に遭いました。そんなヨブの所に三人の友人がやってきました。友人たちはヨブを慰め励ますためにやってきたのです。ところが友人たちとの語らいは議論になってしまいました。今日は先週に引き続いて、ヨブの四番目の友人エリフの主張を見てみたいと思います。

 エリフはヨブが何も答えないので非常に長く語ります。37章でエリフは神について語っています。天地万物の創造主であり、今もそれを統べ治めておられる神のことを語っているのです。エリフは言います。
 「神は、御声で驚くほどに雷鳴をとどろかせ、私たちの知りえない大きなことをされる。神は雪に向かって、地に降れ、と命じ、夕立に、激しい大雨に命じる。神はすべての人の手を封じ込める。神の造った人間が知るために。」(5節~7節)
 「北から黄金の輝きが現われ、神の回りには恐るべき尊厳がある。私たちが見つけることのできない全能者は、力とさばきにすぐれた方。義に富み、苦しめることをしない。だから、人々は神を恐れなければならない。神は心のこざかしい者を決して顧みない。」(22節~24節)

 神がどんなに偉大なお方であるかを語っエリフは、神はヨブのことを決して顧みない、と言い切りました。しかし実際には、神はヨブを見捨ててはいませんでした。神はこのすぐ後、ヨブに語りかけられたのです。神はヨブを顧みられました。

 旧約聖書の申命記31章8節はこう言っています。
 「主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。

 神はすべての人を愛しておられ、すべての人が神の救いを受けることを願っておられるのです。
 新約聖書のテモテの手紙第一 2章4節はこのように言っています。
 「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
 神はあなたを愛してあなたが救われること望んでおられるのです。

 明日は日曜日です。神の救いを受けるために、ぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2016.12.10放送でのお話より )
 
***

このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。。携帯からもこのURLでどうぞ。

***

東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

***



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■ヤコブの人生、子の祝福と礼拝 / 岩井基雄

2016年12月09日 | Weblog
2016/12/9放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。
 月の第二週の金曜日は旧約聖書に登場するヤコブの人生について学んできましたが、今日は最後に新約聖書の視点からヤコブの人生を考えてみたいと思います。

 「人を押しのける」という意味を持つヤコブは様々な歩みの中で神様に取り扱われ、神の御使いと戦って、力の源が打たれ、足の不自由さを抱える人生となりました。しかし、砕かれ、へりくだったヤコブの姿にこそ彼の神による新しい名前「イスラエル」が表わす神の勝利の恵みがありました。どんなに欠けだらけの人をも神様は内側から造り変え、恵みの器としてくださるのです。

 新約聖書で「信仰の章」と呼ばれるヘブル人への手紙の中の11章の中では、ヤコブの人生が次のように記されています。
 「信仰によって、ヤコブは死ぬとき、ヨセフの子どもたちをひとりひとり祝福し、また自分の杖のかしらに寄りかかって礼拝しました。
   新約聖書 ヘブル人への手紙11章21節

 ヤコブの人生には信仰による歩みが数多くあるのですが、このヘブル人への手紙では彼の人生を、子どもたちを祝福したこと、主を礼拝したことに集約しています。とても意義深いことだと思うのです。神様の祝福を奪い取ることを願い続けたヤコブが、恵みの中で、今度は自分の子や孫をまた他の者を祝福する者へと変えられていったのです。そしてユダヤ人の代名詞ともされた「イスラエル」という名前は神の勝利を表すだけではなく、神の御手によって打ち砕かれたヤコブが自分の力に頼らず、杖に寄りかかって主を礼拝する者へと変えられたということを証ししているのです。ヘブル人の手紙11章の中には数多くの信仰者が登場するのですが、「信仰によって礼拝しました」と表現されているのは何とヤコブだけなのです。彼の人生の総括が他の人の祝福と神への礼拝に表わされるとは何と意義深くそして感謝なことでしょうか。私たちもまた多くの問題、様々な問題を通して神様に取り扱われていきます。そのすべてを通して私たちも他の人の祝福を祈る者、心から神を礼拝する者として変えられていくのです。神はあなたを取り扱ってくださいます。

  (PBA制作「世の光」2016.12.9放送でのお話しより)

******

 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

******

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

■初めにことばがあった / 福井 誠

2016年12月08日 | Weblog
2016/12/8放送
FONT COLOR=#770000
 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「初めにことばがあった」です。それではヨハネの福音書1章1節から読んでみましょう。
 「 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
  もうすぐイエス様の降誕であるクリスマスになりますね。しばらくイエス様の降誕に関連した箇所を見て参りたいと思います。今日はヨハネの福音書の1章ですが、その冒頭に、「初めに、ことばがあった。」とあります。ここでイエスは「ことば」と表現されていますねえ。ことばは初めにあって、神と共にあった、と言います。つまり「ことば」と表現されたイエスは、神に造られた者ではない。天地創造以前にあって、神と共にあった存在である、と言うわけですね。ですから神とイエスは親しい関係にあった。神が何を考え、どう感じておられるかは、長年いわゆる永遠のつき合いをもっておられるイエスが分かっていることであるし、説き明かしてくださることである、と言うわけです。

 かつてイエスは「わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ 14章9節参照)という言い方をしていますが、イエスは完全に神を説き明かすことができるお方だ、というのですね。神様はどういう方なのか、あれこれ考える必要はない。聖書を開いてイエス様のことばに耳を傾けて行けば分ることなのだ、と言うわけです。

 続けてヨハネは言います。「ことばは神であった。」 ギリシャ語で唯一まことの神を表現する場合にはホ・セオスと定冠詞ホを用いますね。しかしここは神を意味する「セオス」ということばだけが用いられていて定冠詞はありません。つまりヨハネの頭の中ではイエスと父なる神は全くの別、別の存在であると考えられているのです。ただ神のご性質においては全く完全に同じである、と言うわけですね。イエスは父なる神とは異なる存在であるが、ご性質においては主なる神と同じである、という訳です。それはこのイエスにこそ目を向けていくならば、神がどんな方であるかがよくよく理解されるということです。

 イエス様の降誕を祝うクリスマスも近づきました。ぜひお近くの教会へ行ってイエス様のメッセージに耳を傾け、あなたを愛し導かれる神様がおられることを知っていただきたいと思います。

(PBA制作「世の光」2016.12.8放送でのお話より )



 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし。日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。



このサイトは URL名としてFONT SIZE=4B 
httpyonohikari.biblica.info b
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。font

 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする