♪ラジオ放送・文字版「世の光」

   1952年以来、キリスト教会が協力して全国民放ラジオで放送して72年、
PBA『世の光』を文字で 

■ダビデがイスラエルの王となる / 羽鳥頼和

2014年07月19日 | Weblog
2014/7/19放送


 世の光時間です。お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日はダビデがイスラエルの王となった時のことをお話しします。

 ダビデは王になるとエルサレムを国の都としました。エルサレムは長くエブス人が支配していた難攻不落の要塞でしたが、ダビデはこれ攻め取ったのです。この時からエルサレムはイスラエルの都となったのです。この時のことを聖書はこのように語っています。
 「ダビデはますます大いなる者となり、万軍の神、主が彼とともにおられた。」 サムエル記第二 5:10

 神様が共におられたのでダビデは力強い王となることができたのです。ダビデがエルサレムを攻略したことを知ったツロの王ヒラムは木材と大工と石工を送って王の宮殿を造ってダビデに捧げました (サムエル記第二 5章11節参照) 。都が定まり、王の宮殿が完成した時、ダビデは神様が自分をイスラエルの王として堅く立て、王国を盛んにされたことを確信しました (サムエル記第二 5章12節参照) 。
 ダビデが王となった時、イスラエルの宿敵であるペリシテ人はダビデを狙って戦いを挑んできました。その事を知ったダビデは、まず神様に戦いに出て行くべきかを尋ねました。 「神様、ペリシテ人を攻めに上るべきでしょうか?」 すると神様は言われました。「上れ。私は必ずペリシテ人をあなたの手に渡すから。」 (サムエル記第二 5章19節参照) それでダビデは戦いに出て行き、ペリシテ人を打ち破りました。その後、再びペリシテ人がイスラエルを攻め上ってきました。ダビデはこの時も、神様に出て行くべきかを尋ねました。すると神様は言われました。「上っていくな。彼らの後ろに回ってゆき、ペリシテ人が出てきたら攻め登れ。その時わたしはペリシテ人の陣営を打つためにあなたより先に出ているから。」 (サムエル記第二 5章23-24節参照) ダビデは神様が命じた通りにしてペリシテ人を再び打ち破りました。

 神様はダビデをイスラエルの王とされました。そしていつも共にいて、その王国を堅く立て栄えさせてくれました、敵が攻めてきた時もダビデを導き、ご自身が戦われました。ダビデは自分の信仰を詩篇16篇8節でこのように表しています。
 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
 ダビデはいつも神様を覚えて神様に従いました。神様はダビデの人生を揺るぐことのないものにしてくださいました。

 明日は日曜日です。あなたの人生を確かなものしてくださる神様に会うためにぜひお近くのキリスト教会にいらしてください。


 (PBA制作「世の光」 2014.7.19放送でのお話より )
 
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このサイトは URL名として
 http://yonohikari.biblica.info 
が使えます。携帯からもこのURLでどうぞ。

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東海福音放送協力会へのお問い合せは、
 464-0044 名古屋市千種区自由ケ丘2-10 自由ケ丘キリスト教会内 電話052-762-2196 へ

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■神の思い直し? / 岩井基雄

2014年07月18日 | Weblog
2014/7/18放送

 世の光の時間です。お変わりありませんか? 岩井基雄です。今日もちょっと分りにくいキリスト教用語を学んでみましょう。聖書が語る神様は、すべてのことの主権者であることも以前学びましたね。すべてをご存知で、すべてのことがお出来になるという全知全能の神様のことが聖書に記されていますが、聖書には「神が思い直された」という表現もあります。神様の主権や偉大さを学ぶ中、何か違和感を感じる方もいらっしゃるでしょうね。

 聖書の中に、次のようなことばがあります。
 「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。・・・もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。」 旧約聖書エレミヤ書18章8節と10節 

 聖書が語る神様は、すべてのことを宿命的運命的に定め、人の心や人生を操る方ではありません。人を心から愛するゆえにその祈りを聞き、くだそうとしていたさばきを思い直し、恵みを豊かに注がれる方なのです。また神様は、人の心や人生を取り扱うゆえに、神様が私たちの応答に対して「思い直される」ということは、神様の豊かな愛をも示しているのですね。だからこそ、その豊かな愛を私たちが踏みにじってしまう時、神は私たちを愛するゆえに、幸せを「思い直される」ことがあるのです。それは神様が私たちの心をすべて御存知だからです。私たちの心が高慢から離れ、罪を認め、悔い改めることもまた私たちが悔い改めを拒絶し頑なになることもすべてお分りになるからですね。神は限りない愛で私たちを愛しておられます。それゆえ私たちが心を開き、自分の罪を認め、悔い改めて神に立ち帰ることを待っておられるのです。更に神はあなたが他の人のためにその救いや恵みを祈る事も待っていらっしゃいます。あなたの祈りを聞き、その祈りに応答して神様は「思い直し」、恵みと祝福を多くの人々に与えようと待っていらっしゃるのです。

 聖書のことば
 「それゆえ、主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は。」 イザヤ章30章18節

 (PBA制作「世の光」2014.7.18放送でのお話しより)

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 さて、この番組を制作しているPBAの「世の光」の係りでは分りやすい聖書通信講座を用意していて、初めての方には無料の入門コースがお勧めとの事。詳しくはPBAに案内書を申し込みましょう。日曜日に教会を覗いてみるというのはお勧め。
こっそり覗きたければ一人で。それとも友だちをけしかけてつるんでもいいし、日曜日は大抵、朝10時か、10時半頃からお昼頃まで集まっていて誰が行ってもオーケー。事前の連絡なしでもちょっとのぞかせてくださいと言えばいいでしょう。
PBAに聞くと近くの教会を紹介してくれるので、気軽に問い合わせるといいでしょう。問い合わせ先は、mail@pba-net.comです。

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■主よ。われらの神よ / 福井 誠

2014年07月17日 | Weblog
2014/7/17放送

世の光の時間です。福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「主よ。われらの神よ」です。それでは黙示録4章11節から読んでみましょう。

  「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。

 黙示録は4章からいささか難しい印象がありますね。その理由は幾つかあります。一つは黙示録の記事は今の私たちの感覚と違う紀元1世紀の著者の感覚で書かれているからですね。

 また黙示録は古代イスラエルの文化的な背景の中で書かれています。だから黙示録を読むためには当時の人々がどんな知識的な前提をもっていたかを理解することが大切です。
 
 更に黙示録は古代イスラエルに流行した黙示文学という文学形式で書かれている点に注意しなくてはいけません。黙示文学というのは一言で言えばイメージでメッセージを伝える手法で、例え話に似ています。例え話というのはフムフムと話を聞いていながら全体を通してそういうことかと納得できるもので細かな部分にこだわって聞いてはいけないものですね。黙示録には不思議な象徴がたくさん出てきますけれども、その意味を一つ一つ深く考えすぎずに全体的に受けとめてなるほどと理解するあり方が大事なのです。

 この4章も全体で何が言われているのかととらえるならば注目すべきことは私たちがこの地上の生涯を終えてやがて行くであろうとされる天の御座に四つの生き物と長老たちとそして御使いたちがいて神を礼拝しているという点です。細かいところは分からなくても良いですね。やがてゆく天国では壮大な礼拝が繰り広げられているということです。天国では神様がお一人でポツンといらっしゃる、あるいは神様が蓮の池の間をのどかに散歩されていると言うのでもありません。 「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。」と神様に対して心からの礼拝が繰り広げられています。

 人間は死んで終わりではありません。自分を造ってくださった神様のもとに帰り、神様の厳粛な存在とその権威を認め、ひれ伏す時が来るのです。毎週の礼拝はその準備のようなものですね。次週も教会へ行き、神様に直接お会いする時を待ち望んでいきたいものですね。

(PBA制作「世の光」2014.7.17放送でのお話より )

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■人民のために / 板倉邦雄

2014年07月16日 | Weblog
2014/7/16放送

世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。

 確かアメリカの大統領リンカーンの演説の中の一節に、「人民の人民による人民のための」というくだりがあったと記憶しています。総理大臣ヨセフのエジプトでの食料政策はまさに人民のための政治でした。

 さて飢饉はひどくなり、エジプトでも飢える人が出てきました。ヨセフはどんどん穀物を売りました。すっからかんになった人々はヨセフに泣きつくしかありません。穀物を売っていただこうにも財布は空っぽです。かといってこのままじゃあ餓え死にするしかありません。 「食べ物をお恵みください。」 「分かった。それなら家畜を差し出すがよい。引き換えに食料をやろう。」 翌年になると人々はまたやってきました。 「もうお金はおろか家畜もいません。全部あなた様に差し上げました。残りは自分の身体と土地しかありません。どうぞ私どもの土地を買い上げてください。」 それほど飢饉はひどかったのです。ヨセフはエジプト中の土地を買い上げました。ヨセフは民に言いました。「あなたたちの土地は王様のものだ。さあ、種を渡すから行って蒔くがいい。収穫の5分の1は王様に差し出すのだ。残り5分の4はお前たちのものだ。」 それを聞いた人々は感謝して言いました。 「あなたは私たちのいのちをお救いくださった。どうか、わが主の前に恵みを得させてください。私たちは王様の奴隷となりましょう。」 

 このような人民のための指導者・政治家が立てられるように、神様に私たちも祈って参りましょう。なぜなら上に立つ権威を持つ指導者は神によって立てられた神のしもべである、と聖書は言っています。

 二つの目的のために神のしもべとして人々の上に指導者は立てられています。一つは勧善懲悪のため。すなわち剣の力です。もう一つは人々の益のために立られているのです。

 聖書のことばです。
  「(指導者)は、あなたに益を与えるための神の僕なのである。しかし、もしあなたが悪事をすれば、恐れなければならない。彼はいたずらに剣を帯びているのではない。彼は神の僕であって、悪事を行う者に対しては、怒りをもって報いるからである。」 ローマ人への手紙 13章4節

(PBA制作「世の光」2014.7.16放送でのお話より )

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■渇くことのない水 2  / 大嶋重徳

2014年07月15日 | Weblog
2014/7/15放送

 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 大嶋重徳です。

 ヨハネの福音書4章には、イエス・キリストと出会ったサマリヤに住む一人の女性が出てきます。彼女はお昼の12時頃に水を汲みに出てきていました。当時、女性たちは朝晩2回、1.5キロほど歩いて井戸に水を汲みに行くのが当時の習慣でした。暑い昼間の炎天下に水を汲みには来なかったのです。

 18節を見ると、彼女にはかつて5人の夫がいた、とあります。もちろん同時に5人いた訳ではないでしょうし、5人全員と死別した訳でもありません。彼女は何度も何度も結婚したのです。最初の結婚は彼女を傷つけたのかもしれません。そして次の人こそは。そして5回の結婚生活を終えました。彼女はもう男性なんて信じられないと思ったのでしょうか、それ以上結婚することをやめました。しかし愛されることに傷ついた彼女の心を一時でも癒すことができたのは、それでもまた裏切るかもしれない一時の別の男性だったのです。 「今あなたと一緒にいるのはあなたの夫ではないからです。」 たとえ口先であったとしても「愛してるよ」と言ってくれ、自分のそばにいてくれる相手が欲しかった。おそらく彼女はそんな自分が嫌だったのでしょう。また周りの誰からも、あの人は男なしでは生きていることができない、とそんな目で見られたくはなかった。

 彼女はそんな自分自身を隠すように、誰も来ることのない熱い昼の12時頃を見計らったように一人きりで水を汲みに来ていたのです。今日、私たちには人から隠れるようにしている生活があるでしょうか。人には見られたくない、誰にも気がつかれたくはない、でもやめられない。手放せない習慣、時間です。そんな生活をもっていることを自分でも自分が嫌いだと思う。そしてその生活は私たちを不自由にして行きます。

 エス・キリストは今日も私たちが隠している誰にも見られたくない孤独な罪の場所から私たちを解き放とうとするために、私たちのそばに来てくださっています。あなたの隠れた生活は一体何でしょうか。イエス様はそこにどんなふうに寄り添われているでしょうか。お祈りしながら少し考えていただきたいと思います。

  ( PBA制作「世の光」2014.7.15放送でのお話しより )

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■トマスの告白 / 関根弘興

2014年07月14日 | Weblog
2014/7/14放送

世の光の時間です。お元気でお過ごしでしょうか?関根弘興です。

 イエス・キリストは十字架につけられ葬られ、復活された。これは聖書の中心です。復活されたイエス様は弟子たちの前に現れてくださいました。イエス様が最初に弟子たちの前に現れてくださった時、弟子の中の一人、トマスはその場所にいませんでした。彼は他の弟子たちがイエス様が復活されたと熱く語っているのを聞いて、こう言ったんです。「私は、(イエス様の)その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」(ヨハネ 20章25節) なかなか頑固者ですよね。

 でもそんなトマスの前にもイエス様は現れてくださったんです。そしてイエス様はトマスに、「(さあ、)あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20章27節) と言われたんです。イエス様が復活されたということは、夢や幻や幽霊のようなものではなくて、確かに手で触れることができる身体をもって復活されたということを聖書は私たちに教えています。

 トマスは復活されたイエス様に会い、即座にこう告白したんです。「私の主。私の神。」(ヨハネ 20章28節) と。トマスは自分にとても正直な男です。信じられないことは信じられない、とはっきり言う男でした。しかしイエス様と出会ったなら彼は180度方向を変えて今度は一直線にイエス様に従う者となり、イエス様に対して「私の主。私の神。」と告白する者になっていきました。そしてこの告白は私たち大切な意味を教えてくれるのです。

 当時の世界、それはローマの世界です。ローマ皇帝は自分がどのように呼ばれることを好んだのでしょう。それは「わが主。わが神。」と呼ばれるのを好んだんですね。特にこのトマスの出来事が記されているヨハネの福音書が記された時代はローマ皇帝を神として崇め、「わが主、わが神」と呼んで礼拝しなければならないと強制されているような時代でした。

 しかし弟子の一人であるトマスは、この世を治めているのはローマ皇帝ではない、十字架につけられ復活されたイエス様こそ「私の主。私の神。」と告白したんですね。死を打ち破り復活されたイエス様こそまことの主、まことの神である、という告白です。イエス様こそ救い主てあり礼拝すべき唯一のお方であるという告白をトマスはささげたんです。私の人生は誰を「私の主。私の神。」と告白するかによって大きく変わって来るんです。聖書は一人ひとりがイエス様は「私の主。私の神。」と告白し生きることを教え、勧めているんです。

 (PBA制作「世の光」2014.7.14放送でのお話しより)

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  電話 052-762-2196 (自由ケ丘キリスト教会内)  東海福音放送協力会 へ
 

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■捨てられた石が礎の石に / 羽鳥頼和

2014年07月12日 | Weblog
2014/7/12放送


 世の光の時間です。 お聴きくださり、ありがとうございます。羽鳥頼和です。今日はイエス様ご自身が語られた十字架のことについてお話をします。

 イエス様が十字架にかかる一週間前のことです。イエス様はろばに乗ってエルサレムに入りました。イエス様は大歓声の中、人々に喜んで迎えられました。それを見たユダヤ人の指導者たちはイエス様を妬んで腹を立てました。

 ある時、指導者たちはいろいろと意地悪な質問をして、イエス様を何かの罪で訴えようとしました。そんな指導者たちにイエス様は言いました。「あなたがたは旧約聖書(詩篇118篇22節、23節)のことばを知らないのですか? そこにはこのように書かれています。『家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。』 」(マタイ 21章42節参照) 

 この詩篇のことばはイエス様についての預言のことばです。「家を建てる者たちの見捨てた石」とはユダヤ人の指導者たちによって十字架にかけられて死ぬイエス様のことを言っているのです。実際にこの数日後、指導者たちはイエス様を捕え、ローマの総督に訴えて、イエス様を十字架にかけて死刑にしてしまうのです。それだけではありません。この詩篇のことばは、十字架で死んだ後のことをも預言しています。 「その石が礎の石になった」と言われたのです。「礎の石」とは家の土台の基礎となる石のことであり、ここでは神の国の土台石のことです。「礎の石となる」とは、イエス様が十字架で死んで三日後に復活することを言っています。イエス様の十字架が神の国の土台となるのです。そしてこの土台石は死んだ者ではありません。復活し生きている活ける石なのです。

 このことは私たちと全く無関係なことではありません。いやむしろ私たちにとってとても大切なことなのです。

 新約聖書のペテロ手紙第一2章4節(、5節)にこのようにあるのです。
  「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。

 この「霊の家」とは目に見える神の国であるキリストの教会のことを言っています。イエス様の十字架によって私たちは救われて,生ける石とされて、霊の家である教会の一員となることができるのです。そして神様は私たちがキリストの教会の一員になることを望んでおられます。

 明日は日曜日です。お近くのキリスト教会にぜひいらしてください。

 (PBA制作「世の光」 2014.7.12放送でのお話より )
 
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■問題を解決へと導く静かな祈り / 岩井基雄

2014年07月11日 | Weblog
2014/7/11放送

 世の光の時間です。お元気ですか? 岩井基雄です。暑い日が続くと一杯の水のおいしさや大切さを実感しますよね。砂漠の多い乾燥したイスラエルでは水はとても重要でした。そして時には水を巡って争いも起こったのです。それは信仰の父と呼ばれたアブラハムも例外ではありませんでした。アブラハムにはゲラルという町に住むペリシテ人との間にこの水の問題がありました。一つの井戸を巡って彼らのしもべたちが幾度も争ったのです。ゲラルの王であるアビメレクのしもべたちはその井戸を巡って幾度もアブラハムのしもべたちに嫌がらせを繰り返しました。しかしアブラハムはそれに対してすぐに抗議をすることをしませんでした。忍耐を重ね、ゲラルの王アビメレクとの和解の時を待ったのです。しかもアブラハムはアビメレクに贈り物さえも用意し、共に契約を立てる準備をします。彼は誠実の限りを尽くしたのですね。

 私たちは理不尽な扱いを受けたりすると、怒りに任せて相手を攻撃したり焦って解決しようとして更に問題をこじらせしまうことがありますねえ。しかしアブラハムの心にあったのは謙遜さと共に、神の時を待つ静かな信頼の心と祈りだったのです。 聖書はこう記しています。

  「それゆえ、その場所はベエル・シェバと呼ばれた。その所で彼らふたりが誓ったからである。彼らがベエル・シェバで契約を結んでから、アビメレクとその将軍ピコルとは立って、ペリシテ人の地に帰った。 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。」 旧約聖書 創世記 21章31節から33節

 和解を終え、その場所を記念とし、永遠の神、主に祈るアブラハムの静けさはどんな時にも神に信頼する平安へとつながっていったたのです。私たちもどんな時にも心静かに神を待ち望んで祈り、神と人の前に誠実を尽くす者とさせていただきましょう。

 聖書のことば
  「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」 (詩篇 62篇5節)
  「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」  (詩篇 62篇8節)

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■心の戸を開き / 福井 誠

2014年07月10日 | Weblog
2014/7/10放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか? 福井 誠です。今日のバイブル・メッセージは「心の戸を開き」です。それでは黙示録3章20節から読んでみましょう。

 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 黙示録2章、3章には、著者のヨハネが関わったとされる七つの教会に宛てた手紙がまとめられています。たとえば信仰的な熱心さが冷めてきたエペソの教会には、新鮮なキリストの愛に触れ熱心さを取り戻すように、と勧められています。また先週もお話ししたように、苦しみの最中(さなか)にあり萎縮していたスミルナの教会には、どんな苦しみにも終わりがあることを覚えて忠実な信仰を守るように勧められました。社会と妥協し、いい加減な生活を送っていたペルガモの教会、また道徳的に堕落の一途を辿(たど)っていたテアテラの教会には悔い改めが勧められていましたね。そして最後に、ラオデキヤの教会は霊的な無関心に落ちていたようです。熱いキリストの熱意を取り戻すように勧められています。

 こうして一つ一つの教会についてのメッセージが綴られた後に、ヨハネは読者一人ひとりに主のことばを語りかけます。
 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示録 3章19節)

 神様は私たちを愛しておられる、というのです。だから大切なことは耳に痛いことであっても繰り返し語るし、聞くようにしなさい、と言うわけですね。

 更に言います。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 ウィリアム・ハントという画家がこの場面を絵にしていますね。『世の光』という絵です。イエス様が戸の外に立って叩いています。しかしそのドアには取っ手が無いのです。つまり中から開けない限り決して開くことができない扉ですね。

 神様は私たちの思いを尊重してくださいます。私たちがほんのちょっと開いた扉に足をこじ入れる方でもありません。私たちが神様の語りかけに扉を開くように心を開くなら、神様も心を開いて親しくし、祝福してくださいます。神様に呪われている人は独りもいません。私たちが神様に心を開くかどうかが問われています。神様に心を開いて歩んで行きたいものですね。

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■人生の旅路 / 板倉邦雄

2014年07月09日 | Weblog
2014/7/9放送


 世の光の時間です。いかがお過ごしですか? 板倉邦雄です。今日は「人生の旅路」という題でお話ししましょう。

 人生はしばしば旅に喩えられます。エジプトの王様の前に立った歳老いたヤコブも自分の人生を旅路に喩えて答えました。
 さてヨセフは父ヤコブを王に引き合わせました。
 「これはこれは、ヨセフの父上。だいぶお歳のようだが、幾つにおなりかな?」
 「わしの旅路の年月は130年です。私の齢の日はわずかで、不幸せで、私の先祖たちの齢の日と旅路の日には及びません。」 私の人生の旅路は苦労が多かったですね、と言っているのです。正直な告白でしょう。

 今日はヤコブの旅路を振り返ってみましょう。ヤコブは双子として生まれました。父親は長男エサウを偏愛しました。母親はヤコブべったりでしたね。兄を騙(だま)し、長男の権利と祝福を奪い、それがもとで兄からの逃亡生活です。逃亡先の親類では騙されて、20年のただ働き同然の生活をしました。何とか一家を構えて、ふるさとへ帰ってきて、土地と建物を得たと思ったら、娘が土地の男性に辱(はずかし)められ、それがもとで争いとなり、その土地に住めなくなりました。そして最愛の妻ラケルはベニヤミンを産んですぐに死んでしまいました。そしてベニヤミンの兄ヨセフは17歳の時、腹違いの兄たちの憎しみと恨みを買い、エジプトへ奴隷に売り飛ばされました。父ヤコブは、(ヨセフが)野獣に食い殺されたと思い込んで20年以上を生きてきたのです。

 ま、以上ざっとヤコブの130年の人生の旅路を振り返りました。確かに苦労の連続です。不幸せです、とヤコブが言った通りです。しかし、私たちは聖書を通して知らされています。ヤコブの苦労の節目に必ず主なる神様が登場し、ヤコブの信仰による祈りと礼拝に応えてくださったことです。そして神様はご自分の約束をヤコブを通して表してくださいました。

 聖書のことばです。

 「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」 ヘブル人の手紙11章1節

(PBA制作「世の光」2014.7.9放送でのお話より )

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