九州で過去より中心とされてきた大宰府の地に観世音寺がある。
七世紀後半から整備されてきた古寺である。
761年、聖武天皇の勅願によって観世音寺に置かれた戒壇院は、
僧尼に戒律を授ける所であったのだが、
東大寺・下野の薬師寺と共に「天下の三戒壇」と呼ばれている。
下野薬師寺は僧道鏡が、観世音寺は僧玄昉が別当として下向している。
筆者は九州三大左遷として道君首名・玄昉・菅原道真を思慕しているが
道鏡や玄昉が蘇我氏と同じく藤原家により貶められたことは間違いない。
従ってその研究は蘇我氏の真実を知る上でも重要である。
ちなみに玄昉も道鏡も物部氏に繋がる一族であり
玄昉は空海にも繋がる阿刀氏(安斗氏)とされる。
この玄昉は藤原広嗣の祟りで殺されたとするが
大宰府に「胴塚」があり奈良に「頭塔」と呼ばれる「首塚」がある。
不比等のもう一人の孫の藤原仲麻呂の所業であることは間違いない。
この頭塔は東大寺別当次第・東大寺要録などの資料から、
767(神護景雲元)年、良弁の命を受けた実忠によって
造立されたというのが定説化している。
東大寺の良弁の玄昉への思いがひしひしと伝わる。
参考:「謎のピラミッド」と話題になった頭塔(ずとう)
岡寺の義淵の元で玄昉、行基、良弁は共に学び義淵七上足と呼ばれている。
良弁は玄昉の偉大さと不遇を認識している一人として
玄昉の首塚を21年後の767年に再整備したものと思われる。
玄昉を暗殺した可能性がある藤原仲麻呂が恵美押勝という名を戴き
今度は道鏡との関係で恵美押勝の乱を起こし764年に切り殺されている。
藤原仲麻呂が死んだのでやっと良弁は玄昉の首塚を祭祀出来たのだろう。
この「頭塔」は玄昉の死後21年後の整備ということで
玄昉とは関係ないと考える人がいるが藤原仲麻呂が生きている間は
祭祀出来なかったことを推察すればなるほどと納得していただけるものと思う。
まとめると藤原と反対勢力の戦いが続いていることが良く分かる。
藤原家代表広嗣 VS 橘諸兄-吉備真備-玄昉-宮子夫人-聖武天皇
光明皇后-恵美押勝 VS 孝謙女帝-道鏡
藤原家代表百川 VS 孝謙女帝-道鏡 孝謙女帝=第48代称徳天皇は毒殺か?⇒道鏡左遷
百川&和気清麻呂 VS 弓削道鏡 物部氏系王権再興の夢は再び消え去る
孝謙女帝=称徳天皇は墾田私有を禁止していたが天皇暗殺毒殺?後に
藤原氏により墾田私有再開されそれ以降はさらに藤原氏が謳歌を極める。
さて観世音寺の本尊は本堂にある木造盧遮那仏座像だが、
観世音寺というだけあって現在の宝蔵(有料)には
平安時代の1126-31年製作の馬頭観音立像他
十一面観音立像、不空羂索観音立像とすばらしい観音像が収蔵されている。
日本最古の大黒天像も有名だ。
これらの観音像は芸術的価値だけでなく霊的見地からも大切な価値がある。
ただ今回紹介した写真は観音像ではなく、
この九州の守りを祈願され続けてきた兜跋毘沙門天である。
京都で羅城門の楼上に安置され京都を守っていた像も兜跋毘沙門天である。
中国の毘沙門天霊験譚によると
兜跋とは、吐蕃(とばん=チベット)に繋がり、
シルクロ-ドの要衝であったキジルが吐蕃によって攻められた時、
密教僧であった不空が祈祷をすると、
城の北門に大地母神(地天女)が毘沙門天を持ち上げて出現し
吐蕃を撃退したという故事に基づいた像である。
ちなみに京都の羅城門の兜跋毘沙門天像は
国宝となり東寺の宝物館に安置されている。
観世音寺の兜跋毘沙門天は、観世音寺で最も古い仏像であるにも関わらず
康治二年(1143)の「観世音寺年料米相折帳」に記載がない。
いったいどういう経緯でこの観世音寺に伝わったのだろうか?
美術的な話は素人であるが霊的に見てこれほど優れた仏像はまれである。
日本の国防祈願がこの兜跋毘沙門天に託されてきた歴史が間違いなくある。
まさに霊的国宝であろう。
観世音寺 毘沙門天 上半身図
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七世紀後半から整備されてきた古寺である。
761年、聖武天皇の勅願によって観世音寺に置かれた戒壇院は、
僧尼に戒律を授ける所であったのだが、
東大寺・下野の薬師寺と共に「天下の三戒壇」と呼ばれている。
下野薬師寺は僧道鏡が、観世音寺は僧玄昉が別当として下向している。
筆者は九州三大左遷として道君首名・玄昉・菅原道真を思慕しているが
道鏡や玄昉が蘇我氏と同じく藤原家により貶められたことは間違いない。
従ってその研究は蘇我氏の真実を知る上でも重要である。
ちなみに玄昉も道鏡も物部氏に繋がる一族であり
玄昉は空海にも繋がる阿刀氏(安斗氏)とされる。
この玄昉は藤原広嗣の祟りで殺されたとするが
大宰府に「胴塚」があり奈良に「頭塔」と呼ばれる「首塚」がある。
不比等のもう一人の孫の藤原仲麻呂の所業であることは間違いない。
この頭塔は東大寺別当次第・東大寺要録などの資料から、
767(神護景雲元)年、良弁の命を受けた実忠によって
造立されたというのが定説化している。
東大寺の良弁の玄昉への思いがひしひしと伝わる。
参考:「謎のピラミッド」と話題になった頭塔(ずとう)
岡寺の義淵の元で玄昉、行基、良弁は共に学び義淵七上足と呼ばれている。
良弁は玄昉の偉大さと不遇を認識している一人として
玄昉の首塚を21年後の767年に再整備したものと思われる。
玄昉を暗殺した可能性がある藤原仲麻呂が恵美押勝という名を戴き
今度は道鏡との関係で恵美押勝の乱を起こし764年に切り殺されている。
藤原仲麻呂が死んだのでやっと良弁は玄昉の首塚を祭祀出来たのだろう。
この「頭塔」は玄昉の死後21年後の整備ということで
玄昉とは関係ないと考える人がいるが藤原仲麻呂が生きている間は
祭祀出来なかったことを推察すればなるほどと納得していただけるものと思う。
まとめると藤原と反対勢力の戦いが続いていることが良く分かる。
藤原家代表広嗣 VS 橘諸兄-吉備真備-玄昉-宮子夫人-聖武天皇
光明皇后-恵美押勝 VS 孝謙女帝-道鏡
藤原家代表百川 VS 孝謙女帝-道鏡 孝謙女帝=第48代称徳天皇は毒殺か?⇒道鏡左遷
百川&和気清麻呂 VS 弓削道鏡 物部氏系王権再興の夢は再び消え去る
孝謙女帝=称徳天皇は墾田私有を禁止していたが天皇暗殺毒殺?後に
藤原氏により墾田私有再開されそれ以降はさらに藤原氏が謳歌を極める。
さて観世音寺の本尊は本堂にある木造盧遮那仏座像だが、
観世音寺というだけあって現在の宝蔵(有料)には
平安時代の1126-31年製作の馬頭観音立像他
十一面観音立像、不空羂索観音立像とすばらしい観音像が収蔵されている。
日本最古の大黒天像も有名だ。
これらの観音像は芸術的価値だけでなく霊的見地からも大切な価値がある。
ただ今回紹介した写真は観音像ではなく、
この九州の守りを祈願され続けてきた兜跋毘沙門天である。
京都で羅城門の楼上に安置され京都を守っていた像も兜跋毘沙門天である。
中国の毘沙門天霊験譚によると
兜跋とは、吐蕃(とばん=チベット)に繋がり、
シルクロ-ドの要衝であったキジルが吐蕃によって攻められた時、
密教僧であった不空が祈祷をすると、
城の北門に大地母神(地天女)が毘沙門天を持ち上げて出現し
吐蕃を撃退したという故事に基づいた像である。
ちなみに京都の羅城門の兜跋毘沙門天像は
国宝となり東寺の宝物館に安置されている。
観世音寺の兜跋毘沙門天は、観世音寺で最も古い仏像であるにも関わらず
康治二年(1143)の「観世音寺年料米相折帳」に記載がない。
いったいどういう経緯でこの観世音寺に伝わったのだろうか?
美術的な話は素人であるが霊的に見てこれほど優れた仏像はまれである。
日本の国防祈願がこの兜跋毘沙門天に託されてきた歴史が間違いなくある。
まさに霊的国宝であろう。
観世音寺 毘沙門天 上半身図
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空海は、「公の系図」から消された、道鏡と聖武・考謙夫妻の皇女高野姫夫妻の末裔ではないか?という考えも頭を掠めています。
高野山のネーミングも高野姫に纏わる場所であり、「高良の宮」や「大伽耶(意富伽耶)」に繋がる筈だと思いました。つまり夏王朝・夏后氏の末裔を名乗ってるんですよね。
話は変わりますが、高野山奥の院は、歴史に名を残す有名人の墓所は勿論労災死した有名企業の従業員達を弔う慰霊碑も沢山あります。もしかしたら、道鏡亡き後皇太后を名乗っていた高野姫やその母の考謙の墓所も本当は高野山にあったり。
3361
後唐書自体唐が滅んだ宋代に書かれており、新羅国王の系図を記した三国史記も朝鮮半島三国時代から500年位時代が下った高麗王朝に書かれています。なので、記述が誤っている箇所や意図的に改竄された可能性も否定できない為、そのまま鵜呑みには出来ませんが。
現存する「公式の文献」から判断しても、光明皇后と娘の考謙天皇は明らかに政治的に対立している事がわかります。更に伯母から考謙天皇が実は聖武天皇の娘ではなくて、皇后だった。しかも父親が長屋親王だったと夢で聞かされてから、蘇我・物部大王家の背景を持つ皇后(正妻)の考謙vs妃嬪(側室)の光明子(バックは唐や親唐派百済王族や唐の衛生国になった金氏新羅)が政治的に対立していた可能性を考えていました。因みに井上内親王も聖武の娘ではなくて聖武の貴妃(皇后に次ぐ位の妃)であったとの事です。
聖武天皇と考謙天皇(阿倍皇后)の間に生まれた子供で、唯一阿倍皇后死後まで生存した子が高野姫で、この高野姫が還俗した道鏡と婚姻して「高野皇后」道鏡の死後は皇太后を名乗ったとの事です。道鏡は歴とした上宮王家と出雲の蘇我連子大王の血を引く王族であり、大王位の継承権を持っていたのです。
高野山を開山した空海が物部家の末裔ならば、共に上宮王家の末裔だった道鏡だったという事はありませんかね?
少し前に見た夢で私は、奈良に行く筈だったのが「高野姫」の導きとやらで、急遽和歌山県の熊野に向かわされていました。更には大宰府の宝満山から下山できなくなった夢も別途見たので、大宰府は闇に消された歴史の真実が封印されていると思います。
3680
1923
この前、講座で平城京の周りに古墳を見に行った際事前に行きたかったお寺の関係の講座に行ってきました。
その中で玄昉さんのお話出てきましたよ。記事の内容がさらに良く分かりました。密教の前身のような教義は持っていた可能性ありそうですし、また玄昉さんが生きていたとかそういう説も話出ていましたよ。大陸に近い方への左遷なので。
一度日本にきてまた大陸へ帰ったとしたらそれも左周りだったなら興味深いです。今後、色々な専門家研究どんどん出してくれるはずです。いい風を感じますよ。8326
馬頭観音も連子だと思うと近江方面もかなり理解出来ますね。牧のあった地の関係もありそうです。9644
毘沙門天たる存在の下には大地母神いますよね。土と水というのも同じように思います。どちらも大地の神の恩恵です。強いて言えば今の世は、母を消して娘を水神にしてすり替えているので確執と見えますが、水神の娘自体も異母娘に持って行かれているようにも。
確執が起こらない方法は、大地母神に繋がることだと思います。
また吉祥天が大好きなので吉祥天あっての毘沙門天だと思います。吉祥天と弁財天は若干資質が違うのをお伝えしておきます。善悪の信念がぶれないのが吉祥天だとも。弁財天さんは利用されやすい点。悪い勢力と離してあげるのも必要だと思っています。
700年代に福岡に観音信仰があったんですね、嬉しいですし、馬頭もあるならなおさらです。ならば善神天智の時代も観音ありそうですね。妄想では4Cには来ていそうに思います。
実際は沖縄の島だったかな?高月という地名がある島に4Cでその後九州で、琵琶湖の観音の町、高月の移動するならば蘇我氏継体関連でしょうね。
昨日の沖縄の地震か年号からでもアマミキヨさんが関連で出てきました。沖縄の島だったかで大和言葉が伝わっているようです。当然九州との関係でしょうし、蘇我氏との関係なのでしょうね。1983
濃密な谷地の茂みに湧く泉のもと、羽衣のように白くひらひらと舞う不思議なモノ。
「これ、これ!」と叫びそうになりました。これが私が逢ったものかもしれない、目にしたとたんそう思いました。
沢山に枝分かれして裾を引き、向こうの山から流れてくるような細長い羽衣様のものは、一瞬にして、あの佐田の山々から流れ出ていた無数のせせらぎと同じものと、私には視えました。谷戸だらけ、せせらぎだらけの異常に水の豊富な土地でした。
絵をよく見ると、ソレを身に纏うようにして泉で舞う女性が居る、この女性は竜蛇を呼ぶ巫女でしょうか?ソレ+女性が一体となって天女なのでしょうが(瀬織津姫?)(…ん?天女と羽衣?)。(この画家にはキジムナーの絵などもあり、懐かしく楽しく暖かな画風。自然界の精霊と仲良くできる超感覚者のようです)。
そして大変重要なことに、ソレには角が!?
これはやはり蛇と言うより竜ですね、妙見寺の夜搭神と同じく。
私の言うところの地竜=水神にして地神たる竜蛇=谷戸神です。そして荒吐神でもあり?瀬織津姫でもあり?
ともかく娘が女のカミサマと言ったのはあたっていたらしい。
この鬱蒼とした茂みと湧水の空気感は、今も菅~稲城に残る薄暗い谷戸のかんじに通じます。そのおおかたはもうすぐ埋め立てられるみたいですが(難航している印象もあり)。
utoutou様記事の大物主の記述で、私がわからなかったクナト大神のことがやっとおぼろに見えかけるような、そしていろいろのものが繋がってくるような。
もしかして大国主も、大物主も、クナト大神も、国常立も、妙見神も、毘沙門天も、どこかで繋がっているのでは??何かひとつのものの足の方だったり頭の方だったり、別の働き、側面として。
それは横に広がる女性性に対する縦のしくみのような?
シロウトの発想ですが、菅の「子之神社」の大国主=大巳貴神の「子」と「根」。子は北の方角をあらわす。この北は天の北方ではないだろうか?妙見も北辰、天の北極。すっくと立つ毘沙門天、その北の守護も、天の北なのではないか?国常立は国底立ともいう、国(地球)の根=底から天の北極(子)に向かってすっくと立つ神、だから天常立でもある。北辰に向かい地球の地軸を護る、地球神。(後ろの正面とは、この存在?)それを支える無数の地神たちと大地母神。
それにしてもこの毘沙門天像は凄い、深い
すでにあちこちに書き散らかせていただいたように、私の隣町稲城市で、南山開発という大規模な開発が行われていますが、周辺地域のおおざっぱな古代史としては、①すでに開発によって潰された縄文遺跡の石器時代のあとに、②最初期の稲作と製鉄の民「谷戸の民」と彼らの祀る水神や地神の時代、③妙見信仰が持ち込まれ、谷戸の民が支配下におかれた時代、というおおざっぱな古代の流れが目に見える歴史として残されていることを、ここ数日で確認しました。
穴澤神社の崖下、弁天社の小洞窟が鉄さびに覆われていることからも、この土地の水が鉄分の非常に多いことは歴然。③の民は、鉄の歴史という視点からみて、進んだ製鉄法を持ち込み、谷戸の民の土地を奪って彼らを支配下においたと考えています。(出雲の佐田で起きたことと同じ。つまり③の民はスサノオ系~蘇我系か?吉田様の云われる、蘇我氏は初期妙見信仰を持っていたとすると。)
開発地の南部に日蓮系の日本山妙法寺、東部には背後にありがた山のある妙覚寺(臨済宗)、西部に妙見寺(天台系)がありその奥宮に妙見尊、妙見色が色濃い地域と感じます。(弁天洞窟のある威光寺は真言宗豊山派)。
その東に隣接する我が菅地区側には、大国主(大巳貴神)を祀る子之神社(その背後に倉稲魂を祀る小さな稲荷社)、薬師堂、玉林寺(指定重要文化財である涅槃図所有、観世音菩薩を祀るお堂あり)などがあり、稲城地区と少し匂いが違います。
子之神社の由緒書きに、大国主(別名大巳貴神)の本地仏は十一面観音、とあり???
子之神社の石段下に法泉寺がありますが、子之神社の「別当」である法泉寺が本地仏云々とみなしたようです。
菅地区の総鎮守・子之神社のオオナムチ勢力が稲城の②と③にどうかかわるのかがつかめないでいます。
菅は、町としては全国で一番大きいそうです(菅町と言うのはないが菅○○の地名で残っている)。
バブルの最期期に、我が一家は南武線と京王線の交差する稲田堤駅周辺のダサイ田舎町が地価の値上がりを見込めると期待して越してきましたが、見事にハズレたのは、時代の流れもあるものの、菅町内の長老が再開発に猛反対したかららしい。で、駅周辺はダサイまま。オオナムチの力か?
さて、夜刀神です。
ネットで得たばかりの知識ですが、さきの妙見寺、稲城市百村の「神王山・北辰妙見寺」には、毎年8月7日に行われる注目すべき行事「蛇より行事」があります。
よりは「縒り」。百村はモムラと読み、ヒダスカートをあらわす裳裾のモで、南山が襞の多い、つまり谷戸(やと)だらけの山であることがわかり、○○谷戸という地名も多い。蛇より行事はチガヤ(茅萱)をよって編んで150メートルにもおよぶ蛇を造り、結界を張る如く、奥宮の「妙見尊」から寺への道に渡して、地域の加護を祈ります。昔は寺をぐるりと巡る長さだったとか。無病息災を願って老若男女でこの蛇を持ち支えますが、「茅の輪」の観念の根源をみるようです。奥宮に「妙見尊」を持つこと自体この寺が神仏分離以前は修験系であったことを匂わせます。
さて、そのチガヤ製の蛇の頭部には、なんと立派な角が!
画像で見ると蛇と言うよりは竜です。まさに夜刀神=谷戸神=地竜(夢で聞こえた言葉)・(私見でいうところの)「水神にして地神たる竜蛇」ではありませんか。
地元のおじさんたちが数人で縒りあげていきますが、なかなかの鋭い面構え、「視えない」私は、ああ、こういう御姿なのか、と胸が熱くなり…ただし視えないから角については保留中、龍も角があるのは男龍だというが??
少なくともこの地では夜刀神には敬意がはらわれ、谷戸の民が、茨城方面ほどにはさほど酷い殺戮にあったりはしなかったのではないか、いいかえれば従順に支配されていったのかと想像されますが、鎮魂の意味が強いのかもしれません。「二十三夜搭」と彫られた石塔の前に頭を置かれ、仏教寺での祈祷において頭を垂れかしづくかのような夜刀神の後ろ姿に、あの誇り高い竜蛇様が、と何やらもの悲しくなる私なのでした。(夜搭は夜刀、二十三は何だろう、従った谷戸が23あったのだろうか)
蘇我氏と強い縁を勝手に感じている私は、よくわからない妙見神というものについて深く考える必要を感じます。今は宿題にしておきます。
亀に乗る妙見。つまり妙見信仰の蘇我氏にとっては地の底の神は亀だったのか?蛇ではなく。
地表担当の竜蛇に対し、亀や大蛇はより深い所の強大なる地神か?
竜蛇族=アラハバキ族?
大蛇を「根の神」大巳貴神とした別の勢力=クナト大神族?
ふたつが融合していたところに、亀族が加わった。
それが亀蛇か?
北辰妙見寺にもちょっと稚拙な亀蛇の彫り物があります。
よくわかりませんが、今はとりあえず、一帯をあちこちお詣りする小さな旅が始まるであろうことを確認いたしました。
自分が出雲で逢った(と今も信じて疑わない)竜蛇様に、地に豊穣をもたらす「地母神性」を勝手に感じていました。
しかし地母神そのものではなく、地球の表面近いところで各々は地域限定で土地の浄化と豊穣のために働く、いわば大いなる地母神のもとで手足となって働く無数の眷属というか子供(娘?)たち、といった感じがありました。
だからこの「蛇?の群れの中から立ち上がる大地母神」の姿に、そうそう、こういうこと、と嬉しくなったのです。
しかし私の捉えた竜蛇は地下の蛇的エネルギーではありますが、ときには空を飛ぶ竜でもあります。それは夢の映像で見た、谷の上空に浮いて下流方面を俯瞰したのち猛スピードで滑空し、谷に穴をうがって地下に突入していく、その竜性。竜というか猛禽のようなそのまなざし。穴は彼らが突入していくところ、自在に開いていくのです。
竜蛇は、竜の水神性と蛇の地神性を併せ持つ。そう感じるところから、少なくとも竜蛇にあっては土と水は一体のもののように思いますが…まあ一個人のオリジナルな感覚ですが。
よくはわからないまま、竜蛇様にご挨拶する地を、西出雲の辺鄙な山あい、農地の片隅の名もなきせせらぎのそばを選び、そこが最適であったと今も思うのは、驚くほどの水の豊かさのもと、人と土地神との共同が古来守られてきた、ささやかながらも類まれな豊穣の地であったと思うからです。
この像は、毘沙門天画像で検索した中でも特別に素晴らしいものですね。霊的国宝というのもわかる気がします。
土台のぐるぐるは、一体一体が生きています、凄い。何だか嬉しそうにすら見え、微笑んでしまいます。
毘沙門天については全く無知ですので、宿題がまた増えました。
思いました。
毘沙門天をめぐる吉祥天 弁財天 大地母神(地天女)の
三つ巴の関係が
透けて見えたのかもしれません。
毘沙門天を支える大地母神(地天女)の姿には
私も思いがありますが
土の属性と水の属性との相剋が
感じられるのも事実です。
この像に嫉妬する毘沙門天信仰者もおられます。
キリスト教を始め儒教も然りで、母親を内包する女性原理の否定をする宗教では、地球そのものに眠る大地の蛇(男性神)を正しく祭祀する事は出来ない様な気がするのです。先ずは大地の女神に敬意を払う事が重要に思えてきました。
牛と関係があると思われる盤古やユミルも后神の存在の痕跡があったにもかかわらず、彼らの妻神達の存在は消されるか別の男性神の后にされてしまいました。そして盤古やユミルは両性具有の神とされてしまっています。それはヒンドゥー教のプラージャーパティという創造神も同じだと考えています。
「男性が男性である事に、女性が女性である事に喜びを感じる事ができる世の中こそ、最もあるべき本来の姿。男性が女性と違うから、また女性が男性と違うからという理由だけで、互いが互いを蔑み合う事は、森羅万象を破壊し尽す災いの元である。」というコメントを、私が尊敬する某声優兼俳優の方が以前にコラムで書かれていた事を思い出しました。
紀元1604年
苛烈な儒教化を推し進めた徳川家光の生誕の年ですね。
もしそうだとしたら、毘沙門天が組み敷いているのではなく、支えているのが嬉しいです。
私も家の中での寒さにめげています。
灯油も高くなりましたよね。
昨年の暑さも地獄でしたが寒いのも辛いです。
観世音寺に行かれたらまたご報告ください。