yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1993.8 モンゴル・ウランバートルから1時間半飛んで広大なゴビへ、素朴なテント式住居ゲルを訪問

2017年10月12日 | 旅行

中国・内蒙古自治区のゴビ砂漠を走ったのは1995年、先立つ1993年にモンゴルのゴビを訪ね、さらに素朴なモンゴル族のテント式住居ゲルを見聞した。そのときの紀行文を再掲する。

1993 モンゴルのゲル
                             
 子どものころは、誰もが無性に強い者や美しい者、不思議な力をもつ者にあこがれる癖がある。たぶん、大人のように地球とか生命とかの不思議をむりやり科学で納得したりせず、純粋な感性でいろいろな不可思議を子ども心に理解しようとして強い者や美しい者にひかれるのではないだろうか。その一人にチンギス・ハーンがいる。アジアの東の彼方から、ただ馬だけで、アジアの西の彼方、そしてヨーロッパの中部まで支配下においた話しを聞き、ぞくぞくするような興奮をおぼえたことがある。

 彼の本拠、ゴビの雄大な草原は長いあいだの夢であった。ようやく念願かなって1993年8月、モンゴルを訪れることができた。モンゴル2日目、ウランバートルからゴビに向かう飛行機の窓から一面に広がる薄茶色の地肌と、ポツリポツリみえる白い点、これがあとで分かるゲル、そしてザワーと動く砂粒のような群れ(写真)、これは放牧されている牛や羊だが、それを見ながら「やっと来た!」と声を出さずにつぶやくと、自然にあついものがこみ上げてきた。旅はやはりぞくぞくするような感動がなけければいけない。旅には強い動機づけが必要だと思う。

 ウランバートルから南におよそ1時間半ほど飛ぶと、旧ソ連製のプロペラ機がゴビに着陸した。特別に飛行場があるわけではなく、適当に降りた感じである(前頁下写真)。もともとゴビとは短い草がまばらに生えている土地を指す言葉で、飛行機の足元をみると10cmにもならないような白い花をつけた草が、本当にまばらに生えている(写真)。土は砂利に近い砂で、プロペラで飛ばされた砂はけっこう痛く感じる。よくゴビ砂漠という。その方が分かりやすいかも知れないが、モンゴルから西アジアまでつながり、騎馬民族が行き来した歴史からも、実査に踏みしめた実感からも、ここは砂漠ではな。だからゴビ=砂混じりの草地のほうが正確である。強いていえば、ゴビ草原か?

 真夏の昼ごろだが気温は22度、湿度はたった38%しかない。たいへんな乾きようで、これでは遊牧しか方法はないのも当然だと思った。もっとも大急ぎで勉強した範囲では、モンゴル族はもともと森の民だったそうで、狩猟を得意とし半定住の暮らしをしていたが、ツンドラが南下し追われてモンゴル族がゴビに移ったといわれる。夕陽の落ちる風景をみようと少し小高い丘に登り、視力の限りをつくしてはるか彼方まで目をこらしたのだが、結局、なだらかな起伏のゴビが続くだけであった。これでは馬や羊が自然発生的に生まれたり、それを人がいきなり遊牧化するなど、とてもありえない。モンゴル族が森の狩猟民だった説はうなづける。

 さて遊牧するとなれば、住まいはそれなりの簡潔な作り方が要求される。ゴビには背の低い草しかないので、一緒に暮らしていた家畜の皮が素材として利用されたのは必然である。骨組みには北の地域にはえている柳の木が利用された。柳は細くても丈夫なためで、最近は工場生産された一軒分の部材がセットで売られているとか。考えてみれば、移動しやすいように部材を組み立て式にする方法こそ、プレファブリケーションの原点であり、他の形式の住宅に比べてもっとも工場生産化しやすいと思う。
 遊牧民は結婚を機に独立する風習で、そのときにゲルの部材をワンセット購入するそうだ。大きさは直径5mほど、高さは2m強が多く、大人2人で組み立てるのに2時間ぐらい、分解するのは1時間ほどとか。少し誇張されているかもしれないが、いかに簡潔な仕組みか想像できよう。

 日本的な空間概念では、とりつく島のないような広大な草原とフェルトで覆われただけのたよりないゲルにみえる(写真)。しかし、遊牧の民は、きっと草原が床で星空が天井の広大な住まいを遊牧民が共有しあっていて、ゲルというふとんに寝起きする、と感じているのではないか。草原と天空が見えなければかえって不安になってしまう、ゲルに泊まり、天窓を通して満天の星を見ていると、いつの間にかそんな気分になってきた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1995 中国・内蒙古を走る、移動式テント住宅パオの解体1時間半・組み立て2時間半に挑戦

2017年10月11日 | 旅行

1995 中国・内モンゴルのパオ

 モンゴルのゲル、内モンゴルのパオは、遊牧の民、モンゴル族の伝統的な住まいである。かつてモンゴル族は、移動式、組立式、土着的、一室型、生態的などなど、様々な形容詞をもつゲル、パオを、遊牧のためにたたんでは移動して組み立て、たたんでは移動して組み立ててきた(写真、内モンゴルのパオ)。

 遊牧と聞くと、のんびりと自由気ままに家畜を飼育しているようにも思えるが、現実はなかなか厳しく、気ままさなどは微塵もないように見える。移動のコースもほぼ決まっていて、冬の野営地から春~夏、そして秋の野営地と、順に家畜を移動させていかねばならない。いつごろゲルをたたむかは牧草が決め手になるようだ。きっとゲルの主は雪解けや初霜が手に取るように分かり、「よし明日ゲルをたたんで移動するぞ、用意はよいか」など、家族に宣言するのではないだろうか。

 ところで家畜は五畜と呼ばれる馬、牛、羊(写真)、山羊、駱駝だが、なかでも馬がもっとも頼りになるのは日本と同じで、男も女も、ものごころついたころには平気で馬を乗り回すほど。そのため、かつては草地の続く限りを馬で駆け巡り、ついにはヨーロッパにまで及ぶ大帝国を築いてきた。しかし幸か不幸か、彼らは馬を駆って移動することは得意でも、とどまって都市を造営することは苦手だったようだ。モンゴルで古い絵巻を見ると、宮殿の回りをゲルがひしめき合っていて、堅固な都市の雰囲気は感じられない。そのうえ、五畜を相手にした自然順応の観念が進んでいたから、工業を興し国家の基盤を強固にすることも苦手だったようだ。そのためか、モンゴル帝国は衰退してしまった。

 現在のモンゴル族は、主としてモンゴル国(外モンゴル)と中国領内蒙古自治区(内モンゴル)に分かれている。蒙古の字を私たちは「もうこ」と読んでいるが、これは中国から伝来した蒙古の文字を和音で発音したためである。中国音ではmeng・guとなるから、多分、モンゴル語の「モンゴル」に当時の中国が「meng・gu=蒙古」の字をあて、それを当時の日本で「蒙古=もう・こ」と読んだのではないか、これが私の推理である。
 ちなみに、かつての中国は周辺の民族を野蛮と考えていて、漢字をあてるときは意識的に使い分けたといわれる。蒙・古は無知で・時代遅れの意味をももつ。これは大変失礼な話である。例えば、同じ発音の孟・鼓をあてれば大きな・鼓をたたくになり、モンゴル族への印象は変わったかも知れない。

 ゲルを中国では「包=パオ」と呼ぶ。形から連想した呼び方のようで、的を射ていると思う。今回は内モンゴルでパオの組み立てに挑戦してみた。規模が小さければ大人2人で解体に1時間、組み立てに2時間と聞いていたが、素人の私たちと見るに見かねて手を貸してくれたモンゴル人のあわせて7人がかりで、解体に1時間半ほど、組み立てに2時間半少しかかってしまった(上写真、解体中の骨組み、下写真、解体後の骨組み)。素人でもこの時間だから、パオがいかに簡便か想像できまよう。

 組み立てながら気づいたことがある。ゲルにはバガナと呼ばれる柱が2本立ち、真ん中にストーブが置かれていたが、規模の小さいパオには柱もストーブも見られない。しかもゲルの場合、手狭になれば隣にやはりゲルを建てていくのだが、パオの場合はレンガ造の離れを建てる。北京から北に700kmほど走るとフビライの時代、夏の都だった正藍旗という町がある。
 ここで訪ねたパオには若夫婦が住み、隣のレンガ造に老夫婦が住んでいた。レンガ造にはプロパンガスもあり、確実に定住化政策が実っているように感じた(写真、右が移動用のパオ、左が定住用のレンガ積み住居)。

 ゲルとパオ、出自は同じでも国家の違が住み方に影響することが分かる。本来、大草原にも天空にも自由に駆け巡る馬族にも国境はないはずなのだが。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

1996 中国・青島に残るドイツ・ゼツェッションの秀作、福音教会や旧総督官邸を見る

2017年10月10日 | 旅行

1996 中国山東省・青島でゼツェッション発見
                             
 1996年は、春に続き夏も中国山東省の民家調査を行った。中国東北部には、カンと呼ばれる暖房寝台が普及している。かつてはカマドの燃料はマキや石炭が主で、この煙を寝台の下に通して暖をとる方法である。ところが中国沿海部の経済発展はめざましく、呼応して意識面での自由化とともに物的な発展が急速に進んだ。住宅にはプロパンガスや温水ボイラー、ベットが導入され、カマドやカンは脇役になり始めたのである。当時、私の関心はカンのある住宅の現代化にあり、その課題と計画手法の提案を目指していた。

 春の調査では煙台市の海沿いに建つズフーホテルに泊まった。海には漁船が行き来していて、いい眺めだった。そのときはズフーの意味が分からずそのままにしていたが、あとで煙台市の旧名であることが分かった。
 清の時代、いまの山東省あたりの中心は済南であり、ズフーは小さな漁村に過ぎなかった。ところが清末期より欧米の列強が次々と中国への進出を図り始めた。当時は船と鉄路が主役だから、列強はまず開港を求め、足場を固めてから口実をつけては内陸への鉄路を敷設するやり方で領有権を確かなものにしていこうとした。ズフーが開港され、急速に発展して煙台になったのはこのころになる。

 夏の調査では莱州市が中心になったので、少し足を伸ばして青島まで行き、それから北京経由で帰国するコースにした(その当時は成田-青島の直行便はまだ飛んでいない)。青島といえばビールが思い出されるが、ビールのために青島経由にしたわけではなくこの町がドイツ人によってつくられたためである。
 清末期に列強が中国進出を図っているなかでドイツは出遅れてしまった。主要なところはほとんど領有されていたし、清も何とか欧米に巻き返しを図ろうとしていたから、ドイツにはなかなか進出の機会がなかった。そんな折り、ドイツ人宣教師が山東省で殺害される事件が起きた。殺されたドイツ人も不幸だが、中国も不幸なことにドイツ軍はこれを理由に山東省に攻め入ったのである。
 そして、寒村であった青島を開港させ、ここを拠点に済南までの鉄路を建設した。草ぼうぼうの青島にドイツは思い通りの都市建設を進めたといわれる。その片鱗をかいま見たい、これが青島に向かった動機である。

 莱州を朝出て青島に着いたのが昼、翌朝の飛行機までの半日が見学の時間になる。まず青島湾を見下ろす高台のホテルにチェックイン、ここで湾の構図を頭に入れ、次に埠頭に出て斜面に建ち並ぶ建築群をマーク、続いて海沿いに建つ桟橋賓館を訪ね、その後、旧総督府1906に向かい、欧州人街を見たあと青島福音教会1908(上写真)に感激し、旧総督官邸1906の秀逸なデザインに釘付けになって、ここで時間切れになった。(下写真)。

 教会も官邸も伝統の様式にとらわれない自由な空間デザインを表現していた。外観はいずれも非対称だが、実によくバランスしていて安定感があり、素材のもつ性質や一つ一つの丹念な造形がそれぞれ主張しあうのではなくよく調和し空間を豊かにしていた。
 教会や官邸の重々しさや威圧感は微塵もなく、むしろ大らかな暖かみさえ感じた。そのころ、ヨーロッパで起きていた新しいデザイン思潮=ゼツェッションが開放されたばかりの青島で花開いたのだと思える。中国侵略という土俵の上に成り立っている事実の一方で、自由な空間デザインのもつ感性への働きかけも確かに感じる。

 夕食に向かう車から見た新しい都市デザインの開放感はその影響のように思う。捨てがたい遺産がここにものこされていたのである。

 余談、このことがきっかけで、2004年から本格的な青島歴史街区調査が始まることになった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017.4~9 酩酊し、大いびき+無呼吸→睡眠時無呼吸症候群か→一大事、病院へ

2017年10月09日 | よしなしごと

酩酊し、大いびき+無呼吸→睡眠時無呼吸症候群か→一大事、病院へ

 本人は自覚がないが、昔からいびきをかくことがあった、らしい。とくに疲れ切っているときや飲み過ぎたあとはいびきが出やすいようで、カミさんから何度か苦言を呈された。
 今年の春先、まだ寒さが残る4月のある日、懇親会ですっかり酩酊した。翌朝、カミさんがひどいいびきだった、そのうえ、呼吸がしばらく止まって、大いびきで呼吸をし始めた、それが何度か繰り返され、とても眠れなかった、診てもらった方がいいと言われた。
 インターネットで無呼吸を調べた。多くは「睡眠時無呼吸症候群」で、寝ると喉や舌を支える筋肉が弛緩し気道が狭められて無呼吸、低呼吸になり、いびきをかくようになる病気らしい。酔うと筋肉が緩みやすくなる。年を取っても筋肉が緩みやすくなる。年を取る+酔うとダブルで筋肉が緩むから、いびき+無呼吸がひどくなるようだ。

 急ぎ無呼吸を診てもらえる医院を探した。意外と数ない。定期的に診てもらっている総合病院のHメディカルセンターに問い合わせたら、スリープサロンで診ているとのことだった。スリープサロンは予約制のうえ、かなり混んでいて、1ヶ月ほど先の予約になった。それまで深酒に注意し、いびきをかいても迷惑をかけないように寝場所も変えた。
 1ヶ月ほど経った5月、スリープサロンで診てもらった。状況を聞いた医師は「睡眠時無呼吸症候群」と考えられる、おそらく老化により筋肉弛緩がすすんでいて、酩酊が重なったため症状が悪化したようだが、別の病気が原因の場合もあるので、簡易検査器でいびき・無呼吸を調べることになった。
 さっそく計測器一式が渡された。

 寝るとき、腕に計測器を巻き、人差指と鼻にセンサーを付けて一晩計測するだけなので、負担はない。いつも通りがいいだろうと考え、晩酌をしたあと、計測器を付けて寝た。翌日、データが保管された計測器を病院に届けた。

 およそ2週間後に検査結果を聞いた。7時間睡眠中に30回以上、1時間に5回以上の無呼吸は睡眠時無呼吸症候群に該当し、1時間あたり30回以上であれば重度、1時間あたり30回未満~5回以上であれば中度と判定され、医学的な対処が取られる。1時間あたり5回未満であれば軽度で、経過観察だそうだ。

 結果は、11.3回/1時間だった。無呼吸が日常的に起きていることが判明し、がっくりした顔になったらしい。担当医は励ますように、重度であれば精密検査のうえ必要ならば無呼吸を防ぐための手術になるが、11.3回/1時間は軽い中度なのでマウスピースで対処できる、とマウスピースをすすめてくれた。
 無呼吸が頻発すると脳が酸素不足になり→無意識でも酸素補給のために大きく呼吸しようとし→脳は覚醒状態になって→いつも眠気や倦怠感を感じ、集中力が低下する症状が現れるそうだ。さほどの眠気・倦怠感・集中力低下は感じないから、軽い中度なのであろう。
 顔を横に向けて寝ると、無呼吸が緩和されるそうだ。そう言われてみると、横向きで寝ることが多かったことに気づいた。無意識に、呼吸の楽な横向き寝になっていたようだ。

 スリープサロンから、同じHメディカルセンターの歯科口腔外科に連絡を取ってくれた。歯科口腔外科も予約制で混んでいて、1ヶ月ほど先の予約になった。
 6月半ばの当日、スリープサロンの結果を読んだ担当医は手慣れた様子で=それだけ無呼吸症候群が多い?、マウスピースの型を取った。無呼吸を緩和させるには気道を確保すればいい。そのために下あごを少し前に出したマウスピースを作るそうだ。

 7月下旬、マウスピースができた。マウスピースを口にはめると、上あごよりも少し下あごが前に出た状態で口が固定される。口が固定されるから、話や咳・くしゃみができない。もちろん飲み食いもできない。少々窮屈になったが、無呼吸緩和のためだから、やむを得ない。

 およそ1ヶ月、すっかり慣れた9月初旬、マウスピースの効果=無呼吸緩和を診るために、簡易計測を行った。今回は、マウスピースなしで一晩、マウスピースありで一晩計測した。飲酒の影響を考え、2日間酒を控えて計測をした。
 その結果、なんと!!、マウスピースなしで4.5回/1時間、マウスピースありで4.2回/1時間だった!!。
 小数点以下は誤差の範囲だから、マウスピースの有無にかかわらず5回未満/1時間になる。担当医も驚き顔になった。11回/1時間の初回は飲んだあとの計測、今回の5回未満/1時間は2日間は飲まずに計測したと話したところ、担当医は納得し、特段の治療は要しないが、飲酒、体調に気をつけること、マウスピースはいびきや歯ぎしりを抑える効果もあり、飲酒したあとは無呼吸が出やすいので、自己判断でマウスピースを付けること、1年後に経過観察をするとの診断になった。

 無呼吸の症状が軽くて安堵した。5回未満/1時間とはいえ無呼吸が起きているのは事実なので、その後もマウスピースを付けて寝るようにしている。
 いびき、無呼吸はなかなか自覚しにくい。眠気や倦怠感を感じる方、集中力が起きない方は、家族にいびき、無呼吸を確かめてもらい、適切な対処を。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2017.9「運慶展」へ、運慶20代半ばの国宝・大日如来像はりりしい顔立ちで異能ぶりがうかがえる 

2017年10月05日 | よしなしごと

2017.9 東京を歩く 運慶
 
日本橋クルーズのあと、地下鉄銀座線・三越前駅から上野駅に出た。次は、東京国立博物館で開催されている「興福寺中金堂再建記念特別展・運慶」である。9月26日開催でまだ数日、今朝のテレビでも運慶展を紹介していたから混雑を覚悟していた。ところが、待ち時間0、並ばずに入場できた。一般1600円、前売り1400円の入場料になると混雑が緩和されるのかも知れない。
 奈良・興福寺は何度か訪ね、阿修羅像など国宝、重要文化財の仏像を拝観している。興福寺だけでも100点以上の貴重な文化財を有していて、よほど焦点を絞って見学しないと印象が拡散してしまう。今回の「運慶展」のように、作者や作風、時代などに主軸をおいた展示だと焦点が絞られ、理解が深まる。理解が深まれば、どこかの寺院で仏像を参拝するときも、作者、作風、時代などの見方が異なり?、進歩し?、寺院や仏像、強いては仏教が身近になってくると思う。
「運慶展」は平成館で開催されている。平成館は、1999年、皇太子成婚記念に、安井建築事務所の設計で作られた(写真)。1908年、大正天皇の成婚記念として片山東熊の設計で作られた表慶館の重厚なデザインに比べ、軽快である。時代感覚の違いであろう。
 展示は、中央階段を上がった2階の右手前の第1室=第1章から始まり、右奥の第2室=第2章、そして左奥の第3室=第3章へと展開している。
  第1章は「運慶を生んだ系譜-康慶から運慶へ」で、運慶の父・康慶や師匠たちの作品も展示されていて、運慶が康慶や師匠たちの手ほどきを受けながら、才能を伸ばしていったことが分かる展示になっている。康慶は興福寺周辺を拠点とする新たな造形を展開しつつあった奈良仏師に属していたそうで、おそらく運慶も新しさに挑戦するという気風を感じ取ったのではないだろうか。
 重要文化財の阿弥陀如来像、毘沙門天立像、地蔵菩薩像などが康慶や師匠の作だそうだ。運慶作は、国宝の大日如来座像、重要文化財の仏頭などが展示されている。運慶の生年は不明だが、大日如来座像(平安時代1176年)は20代半ば、仏頭(鎌倉時代1186年)は30代半ばと推定されている。
 大日如来が印を結び瞑想にふける座像は、体型も正確で、りりしい顔立ちである。衣のひだもなめらかで、木彫とは思えない柔らかさを感じさせる。突然、ミケランジェロのピエタを思い出した。ピエタはミケランジェロ20代半ばの作品である。運慶もミケランジェロも、生まれながらに異能を身につけていたのであろうか。環境が異能を育てるのだろうか。凡人には想像のできない世界を感じる。
 第2章は「運慶の彫刻-その独創性」の展示は15点ほどで、ほとんどが運慶の作品である。興福寺のほかに、静岡・願成就院、神奈川・浄楽寺、和歌山・金剛峯寺などの作品も集められている。運慶を主題に、各地から作品を集め一堂で拝観できるのは展示会の醍醐味であろう。
 国宝・毘沙門天立像は願成就院所蔵で、1186年作、30代半ばである。両足で鬼?、悪魔?を踏みつけ、厳しい顔立ちで前を睨んでいる
立像は力強さを感じさせる。左に腰を少し曲げていて、動きもある。
 国宝・八大童子立像は和歌山・金剛峯寺所蔵で、1197年ごろ、40代半ばの作である。8人の童子はどれも躍動感があり、彩色も鮮やかに残っていて、見栄えがする。多くの仏像は彩色がはげ、まだらになっていて見栄えがしない。可能な限り修復し、当初の印象を再現して欲しい。運慶の作品では目玉に水晶を入れてあり、八大童子も水晶の目のお陰で目が生き生きしている。
 国宝・無著菩薩立像むじゃくぼさつりゅうぞう・世親菩薩立像せしんぼさつりゅうぞうは興福寺所蔵で、1212年ごろ、60才のころの作である。運慶は1223年に没しているから、晩年に近い=完成度の高い作品といえるかも知れない。 背は高く、体格もいい。一体は、修行の厳しさを表した像、一体は悟りを開き穏やかさを表した像のように感じた。
 第3章は「運慶風の展開-運慶の息子と周辺の仏師」をテーマに作品が展示されている。運慶には6人の息子がいて、いずれも仏師になったそうだ。そのうち、湛慶たんけいと康弁こうべんの作品が展示されている。ここでも、奈良・東大寺、京都・高台寺、東京・静嘉堂文庫美術館などから作品を集めて展示してある。重要文化財十二神将立像は、作者不明だがもとは京都・浄瑠璃寺の仏像で、明治初頭に流出し、東京国立博物館と静嘉堂文庫美術館の所蔵になっていて、今回の展示会で一堂に会することになった。十二神は干支に対応していて、それぞれ表情や体つきに特徴が現れていた。
 第3室を見終えるとさすがに疲れを感じた。表慶館ではフランス人間国宝展を開催していたがパスし、ホテルオークラレストランゆりの木で、異能の仏師・運慶を思い出しながらコーヒーを飲んだ。
 日本橋川クルーズ+運慶、中身の濃い一日を終え、帰路についた。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする