2017.9 東京を歩く 日本橋
日本橋を渡るとき、何度かクルーズ船を見た。日本橋川は江戸を支えた歴史があるにもかかわらず、上に高速道路が作られて川の風情が損なわれてしまった。そのためか、いつも通り過ぎるだけで、川をのぞいたこともなかった。
近年、川辺の整備が進み?、川がきれいになり?、江戸の歴史を紹介する報道も増え?、川から眺めるクルーズ船がけっこう人気だそうだ。
暑さも峠を越した9月、初めての日本橋クルーズを楽しむことにした。当日でも空席があれば乗船できるが、念のため事前に予約した。屋根のないクルーズ船なので(写真)、雨のときや風が強いと中止になる。幸い、当日は曇りの穏やかな日和で、気持ちのいいクルーズを楽むことができた。
いくつかコースがある。屋根付き・食事付きや夜景コースもあるが、およそ60分、ガイド付き、大人2000円、12時半発の日本橋クルーズを選んだ。コースは、日本橋川から隅田川・隅田川支流をくだり、東京港に出て、隅田川をのぼり、日本橋川に戻る回遊である(図はインターネット転載)。
30分前までに受付しないと予約がキャンセルされるので、少し早めの11時40分ごろ、地下鉄銀座線三越前駅に着いた。地下道を歩き、B6出口を出ると目の前が日本橋である。
B6 出口の隣に、日本橋魚河岸記念碑+乙姫像が立っている。徳川家康の江戸入府とともに、摂津国=現大阪の漁師達が江戸に出てきた。漁業の許しを得、徳川家に献上した余りの魚介類を一般に売り始めた。これが日本橋魚河岸である。
しかし、関東大震災により市場が焼失し、震災後の都市計画で築地へ移転することになった・・いまや清洲か築地か揺れているが、起源はこことは知らなかった・・。魚河岸跡には工事用の柵が立てられ、工事用具や材料が置かれていて近寄れない・・オリンピック関連工事?・・。残念、説明板を読み、柵ごしに眺めるだけになった。
B6出口の先が日本橋である(写真、クルーズ船からの撮影)。そもそも日本橋は、慶長8年1603年の木造・太鼓橋が始まりだそうだ。五街道の起源として江戸繁栄の象徴となり、浮世絵にも描かれた。
江戸時代には大火で10回も作り直され、明治初期に石造になり、明治44年1911年、現在に残る石造2連アーチに作り替えられた。長さは49m、幅は27mである。
橋の中央が国道の起点と定められ、「東京市道路元標」が立てられた。そのころは車の往来も少なかったから道路元標が橋の中央に立っていても支障はなかったが、その後、車が増え、路面電車も走り、道路元標は橋のたもとの広場に移された。橋の中央には「日本国道路元標」のプレートが埋め込まれている・・歩道からプレート?が見えるが車の往来があり確かめられない・・。
石橋の欄干の始まりの台座の上に、東京の紋章を足で支えた獅子のブロンズが飾られている。
東京の紋章は、明治22年1889年、日本の中心をイメージして制定され、東京都に引き継がれた。
欄干の中央にはブロンズの麒麟がいまにも飛びそうな勢いで翼を広げている。こうした飾りは妻木頼黄つまきよりなか(1859-1916)の設計で、東京美術学校=現東京芸術大学で制作されたそうだ。改めて眺めると、どれも躍動的であり、勢いを感じる。
日本橋を渡った先の左手に、一段と下がった滝の広場?がある。ここが日本橋船着場で、受付、乗船場所になる。受付を済ませたあと30分ほど時間が空く。国道1号線=中央通りを渡ると、正面に「日本橋由来記の碑」がある。上段の銅板に広重の絵?、下段の銅板に慶長8年、明治44年などの日本橋の変遷が刻まれているが、風化のせいかどちらも分かりにくい。
日本橋を渡ると「日本国道路元標複製」が石に埋め込まれて展示されている。日本橋由来記の碑も日本国道路元標も見るのは初めてになる。通りがかった何人かが感心しながらのぞき込んでいた。日本橋の歴史を体感する観光資産になっているようだ。
その先に日本橋とやま館があった。富山県のサテライトショップである。館内には井波の伝統工芸である欄間や工芸品、名産などが展示、販売されていた。バーラウンジでは富山の銘酒を楽しむことができ、奥の和食レストランでは旬の郷土料理を味わえるそうだ。