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2007.2 中国・青島の歴史街区調査、目抜き通りの中山路を桟橋に向かって下る

2017年10月14日 | studywork

2007.2 中国・青島の歴史街区調査2日目・中山路を下る
                             
 1897年、青島に上陸したドイツはただちに都市建設に着手した。当時、ヨーロッパ列強が次々と中国大陸に進出しており、ドイツも遅れまいと1895年に地質などの調査を実施していて、1986年には膠州湾への上陸を決定したといわれる。当時の膠州湾では細々と漁業が営まれていただけだったらしい。

 1898年のドイツによる都市図(右図)には膠州湾岸東側に「TSINTAO STADT(青島村)」の名が見える。この青島村が現在の都市名の元になっている。同図には、湾の中ほどに桟橋が描かれ、桟橋からほぼ真北に道路が描かれている。この道路が、ドイツ時代にFriedrich Str.と呼ばれた現在の中山路である。

 1902年の青島絵図によると、湾岸沿いのいまの太平路沿いと、中山路沿い、中山路の北・東側に街並みがしっかりと描かれている(右図)。太平路沿いやその奥の広西路沿いはa065に紹介したホテルや集合住宅などが建ち並ぶドイツ人街として計画された。一方、中山路の北・東には1898年都市図に「Chinesen Statd(中国人街)」とある街区が計画された。ここは、建設や港湾で働く中国人、およびもともと青島村に住んでいた人々の代替え地として整備された。

 この中国人街の調査が今回の青島における歴史街区研究の始まりで、比較的よく保全されてきた街区を取り上げ、2005年度日本建築学会大会に「向陽院の住み方」として報告した。今回の調査には初めての参加者もいるので、2日目の朝一番に向陽院などの中国人街区を見て回った。およそ50~60mの街路で囲まれた街区の四方を2階建ての建物が囲み、中庭に低層高密の住居が建て込んだ構成は、何度見ても印象的であり、初めて見た人の声を奪うほどである。中国人街区を一通り見てから、中山路の北端に向かう。

 中山路は南の海に向かって緩く下っている。いまは高層建築があちこに建っているため海は見えないが、かつては中山路から見下ろせば、海に並ぶドイツの船隊や桟橋が見えたのではないか。1902年の青島絵図ではまだ中山路沿いの建築は少ないが、ドイツ時代、続く日本占領時代にも中山路沿いの開発が進み、旧青島市街の中心的な商業街区を形成した。その名残を記録しようと、中山路に面した歴史建築を中心に見ていくことにした。

 中山路北側から、中山路西に膠澳商埠電気事務所1909(上写真)、東に福生徳茶庄1939(下写真)が建つ。前者はドイツのゼツェッションスタイルを連想させる。後者は日本時代であるが、消費者は中国人であろうし、このあたりに大勢の中国人が定着してきたことをうかがわせる。

 福生徳茶庄をさらに下る。中山路は青島旧市街の目抜き通りで、大勢の人で賑わう。歴史建築の古い面影をそのまま残す建物は少なく、通り側に大きな看板をつけた商店、現代的な雰囲気に改装をした店舗、建て替えられた事務所などが軒を連ねる。2006年調査では中国人街区の外観実測採図調査を行ったが、調査中に改修工事が始まり、調査の始めと終わりでは外観が変わってしまったこともあった。日進月歩に合わせて模様替えをしないと人々から忘れられてしまう、とでも言うかのように、改修が行われていく。中国人にとってそれが生き生きいしている証であろう。一方、裏通りに入ると、旧態依然の外観をみせる街並みが続く。その分人通りも少なく、街並みがさびれている。

 福生徳茶庄から少し下った西側に4連続店舗で、中央にアーチの入口をもった3階の建物があった。100年前ぐらいとのことだったが、確証なし。少し下って北京路を西に入ると壁面上部に1932と書かれた謙祥益がある。ファサード上部にできあがった年数を入れる建物は、私たちのような調査には好都合である。謙祥益をのぞくと問屋のようであった。

 中山路に戻って下ると、東に交通銀行青島分行1931、西に義集合銭庄1930、さらに、東に亨宝商業大楼1904、西に青島商会1921が建つ。年代にズレがあるが、中山路の中核をなす銀行や事務所、商会の集積がこのあたりから始まってくる。

 さらに下る。肥城路との交点に建つ大陸銀行1934の角はマクドナルドが入っているので、ここで休憩を取ることにした。日本ではマクドナルドに入ったことはないが、青島調査では、ほかの食堂よりも衛生的に見え、なにより清潔なトイレがあるので、時間調整を兼ねて毎回利用する。値段は一人5元ていど=80円ぐらいなので安いともいえるが、中国の庶民感覚としてはやや高め。利用者は若い人が多い。

 大陸銀行から始まるこの街区(上写真)は、上海商業儲蓄銀行1934、山左銀行1934、中国銀行青島分行1934が連続する。高さも外観のスタイルも類似するし、同年代=日本第2次占領期であることから、日本がこのあたりを商業業務核として積極的に開発をすすめようとしたことをうかがわせる。

 さらに下ると高層ビルや観光用商店に続いて、膠州旅館1908?(下写真)、桟橋近くの青島倶楽部1911で、中山路沿いの歴史建築が終わる。このほかにも歴史建築らしい建物は少なくないが、物証に乏しく年代を特定できないので、資料として記録するにとどめた。

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