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2006.5 アレキサンダー大王、イスラム、モンゴル、ティムール、ロシア、ソ連が侵攻したウズベキスタンへ

2017年10月01日 | 旅行

2006「ウズベキスタンを行く 概報」
                             
 2006年5月26日~6月2日に、ウズベキスタンを旅した。関心は風土と歴史にある。ウズベキスタンの古都サマルカンドは紀元前にマラカンダとして歴史に登場するオアシス都市であり、ヒヴァ、ブハラとともにシルクロードの重要な交易都市として栄えた。そのため、現ウズベキスタンは早くから周辺部族の侵攻が相次ぎ、東西文明の十字路ともいわれた。主なものをあげれば、アレキサンダー大王、三蔵法師、イスラム支配、モンゴル帝国、マルコポーロ、ティムール帝国、ロシア帝国、ソヴィエト連邦の来襲、滞在、支配がある。うち、現在の建築に引き継がれているものに、イスラムの生活習俗、ティムールによる都市建設、ソヴィエト連邦下の近代都市、があげられる。
 ウズベキスタンの北緯はおよそ36°~45°、国土の過半がキジルクム砂漠におおわれていて、そのため砂漠地に立地するヒヴァ、ブハラなどは冬の平均気温は-30℃、夏の平均気温が+30℃に達するほど気候は厳しい。年間平均降水量も首都タシケントで400mmほどと少なく、オアシス都市郊外では放牧と小麦、綿花栽培が目につく。しかし、天山山脈、パミール高原などを源にしカスピ海に注ぐアムダリヤ川、シルダリヤ川から運河、カナートを引いてオアシス都市の水源をまかなっており、それぞれの都市は緑が豊かである。こうした歴史風土、自然風土を背景にした建築の特徴の要点を列記する。

ヒヴァはキジルクム砂漠の西、アムダリヤ川の流域に位置し、標高は-40mである。モンゴル、ティムールによって破壊されたが再建され、10~14世紀にホレズム王国の都として栄えた。日干しレンガを主体とする二重の城壁で囲まれている。ジュマ・モスクは10世紀創建、18世紀の再建で、モスクは精巧に彫刻されたニレの木の柱213本で支えられている(写真)。柱脚はレンガまたは石、その上に鉄をはさみ、下が膨らみ上に行くほど細くなる柱、柱頭に梁を受ける木製の横架材がのる。梁は木材で、上に板をのせ、日干しレンガ、土を用い屋根とする。こうした木柱による構造はブハラ、サマルカンドのモスク、王宮でも見られる。この形態はイラン・イスファハンのチェヘルソトーンに共通し、文化的共通性をうかがわせる。

ブハラはキジルクム砂漠の南、アムダリヤ川の支流域に位置し、標高はおよそ200mである。紀元前から栄え、8世紀にイスラム化、13世紀にモンゴル軍によって破壊されたがウズベク人によって再建され、中央アジアにおけるイスラム教学の中心として信仰を集めた。イスマイル・サマニ(君主名)は20世紀初頭まで砂に埋もれていたため、9世紀創建当時の形態がほぼ完全に残されている(写真)。平面はおよそ10m角の正方形で、高さ約10m、厚み1.8mの日干し煉瓦壁にドームをのせたイスラム建築の原初的な形をうかがわせる。日干しレンガは18種類あり、凹凸のつくる陰影が強い日差しで強調され、正方形の四隅には円柱が立てられ、壁面上部には小さいアーチ窓が連続していて、彫りの深い表現をみせている。ヒヴァ、サマルカンドの歴史建築でもレンガ、あるいはタイルによるリズミカルな壁面構成、方形と曲面の組み合わせなど、豊かな建築表現が展開する。

サマルカンドは天山山脈に続く高地にあり、アムダリヤ川の支流ゼラフシャン川沿いに位置し、標高はおよそ750mである。オアシス都市として発展しソグド人が住み続けてきたが13世紀にモンゴル軍によって破壊され、ティムールによって再建、都として繁栄した。レギスタン広場の北面に建つウルグベク神学校は15世紀の建設で、ティムールに次ぐ偉人ウルグベクによって開校された(写真)。2階建てで、100名ほどの学生が2階に寄宿することができた。およそ30m画の中庭は一面大理石がほぼ中央に向かって一定の勾配で敷き詰められている。中央には雨水が流れ込む穴が開けられ、地下に雨水が貯水される。貯水された雨水は汚れ落としや樹木への散水としていまも利用されている。乾燥地帯ならではの知恵であり、ヒヴァ、ブハラのみならずイランや北アフリカのイスラム諸国のモスク、王宮で同様の仕組みがいまも利用されている。

キジルクム砂漠のオアシスに建つ民家(右写真)、サマルカンド市内の民家(次頁図・写真)をみたが間取りにはきまりはなさそうだ()。多民族混交、支配者のたび重なる交替のためかも知れない。通常、親が子どの結婚と住居を考え、結婚と同時に世帯を分離する(多くは敷地の一隅)。夫婦と子ども数人の世帯が一般で、いずれも敷地を塀で囲み、庭sadに樹木を植え、菜園をつくっている。寝室spalnya、台所kuhnya、客間gostevaya、居間zal、ベランダlodgiaなど、部屋名にはロシアの影響がうかがえる。サマルカンドの住居は2階建てで寝室のあいだに円筒形ペチカが備えられいるのもロシアの影響である。

 近年、ウズベキ語を始めとするウズベキスタン固有の民族文化教育が進められている。民家研究の発展を期待したい。

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