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2007.2 中国・青島の歴史街区調査最終日、ドイツ時代の中国人街区を再訪後、青島ビールで打ち上げ

2017年10月17日 | studywork

2007.2 中国・青島の歴史街区調査3日目・4日目 沂水路~桟橋・徳県路~中国人街

 2007年2月25日、青島路を総督府1906に向かってのぼる。総督府は高台に位置し、湖南路とのあいだは公園になっていて、階段を上がると、総督府の偉容が目にはいる。前回は写真が撮れたが、今回は衛兵が怖い顔をして飛んできた。軍事機密でもないし、むしろドイツ時代の歴史建築を観光的にも活用した方がよさそうに思うのだが、無用のいざこざは避けたいので、総督府から青島湾の風景を撮影し、沂水路を北東にのぼる。

 沂水路の最初の建物、つまり総督府の隣が、徳国海軍第二官大楼1899(写真)である。ドイツの進駐が1897年であるから、進駐後、ただちに建てられた施設といえる。当時は海軍が主体であり、まだ治安も不安定で、海軍が主導権を握り都市造営が行われたのかも知れない。海軍第二官大楼に続き、ドイツ人の住宅1901・1907・1914が連続する。おそらく海軍将校だったのではないか。高台に堂々とした建物が連続している。

 沂水路のはずれ、江蘇路との交点は美国領事館1912で、江蘇路の先の高台には基督教福音堂1910(写真)が建つ。福音堂もざっくりとした割石を大胆に使った左右非対称のゼツェッションである。その当時、ヨーロッパでも斬新なデザインであっただろうし、ましてや中国人は目を見張ったのではないか。ドイツ撤退後、日本軍が青島を占拠するが、青島に花開いたドイツあるいはヨーロッパの新しいデザイン思潮は日本に伝わらなかったようだ。明治中~後期の日本にとってヨーロッパの古典的な様式の方が国威高揚にふさわしいと考えたのかも知れない。あるいは、ようやく明治維新後の国の形が決まりつつあるころで、とても新しいデザイン思潮を採り入れる余裕がなかったとも考えられる。

 福音堂から江蘇路を海に向かって下ると、すぐに総督府童子学童1901が建つ。このほかにも学校がいくつか見られた。つまりは、ドイツの租界地では軍人や商人だけではなく、家族がいっしょに住みついていたのである。租界地を形成すると同時に、家族がいっしょに暮らせる街をつくる、といった発想もなかなか日本にはできなかったようだ。江戸時代以来、地元と江戸に屋敷を構えて暮らすことを強いられてきたせいだろうか。単身で赴任し国や会社のために尽くす、ついでながら羽を伸ばし悪さもする、が黙認されるといった風潮は残念ながらいまも根強い。
 童子学童の向かいにはドイツ時代と思われる住宅が建ち並ぶが、確証はない。

 江蘇路と湖南路の交点に天主教会会宅1899(次頁写真)が建つ。残念ながら使われていない。湖南路を西にすすみ、黒氏飯店1924、ドイツ時代の住宅、さらに西に英国領事館1907(下写真)で、青島路に戻る。

 これで、旧市街の主だった道路を踏査したことになる。昼食を兼ねた休憩を取ることにする。やはり駅前あたりが安心できるので、駅まで歩き、今日は味千ラーメンにした。いわゆる中国料理のラーメンとは違い、麺もつゆも日本に近いが、むしろ日本のラーメンを中国人向けにアレンジしたといった方があってそうだ。20~25元だから、中国人にはやや高めである。

 昼食後、礼和商業大楼1902などをもう一度見ながら、桟橋に向かう。桟橋のたもとの説明には1892年建設とある。ドイツなどのヨーロッパ列強進出を食い止めようと清朝が軍船を集積し、そのために桟橋を設けたのか、あるいはあらかじめ青島進駐を目指すドイツが接岸しやすいようにと桟橋を設けたのか、説明版には建設年代しか触れていない。通訳の学生も真偽は分からないという。いずれにしても、1897年、ドイツはこの桟橋をつかって青島に進駐した。

 当初のドイツの都市図には桟橋のふもとあたりに駅が設定されており、当初はこの桟橋が貨客積み出しの拠点とされていたようだ。青島は鳥の頭のように先端が青島湾に突き出ている。桟橋から続く中山路をそのまま北上すると、すぐに北側の海に出る。ドイツの絵図などは桟橋のある青島湾からの眺めが描かれているが、よく見ると、北側の海も港湾として整備されており、1905年ごろに計画が変更された駅は、桟橋側と北側の港湾の両方に都合がいい立地になっている。都市建設や港湾労働者のための「中国人街」も北側の港湾に近い。ドイツは軍船や客船は桟橋のある青島湾、貨物積み出しは北の港湾と、使い分けていたのかも知れない。

 桟橋の先から、旧市街を見ると(写真)、太平路沿いの泛海名人酒店の右に徳華銀行1901、左に桟橋賓館1912、その左に中央飯店1904が当時の面影を見せながら建ち並んでいる。しかし、全体には高層ビルがひしめき合っていて、ドイツ時代の建築を探すのは難しい。かろうじて天主教堂1933をビルのすき間に見つけることができた。100年前のドイツの建築を生かすか捨てるか、オリンピックまでが正念場であろう。
今日は長崎総合科学大のB先生が合流する予定なので、桟橋からバスに乗り、ホテルに戻ることにした。

中国・青島の歴史街区調査4日目・徳県路~中国人街
 2007年2月26日、天気よし、B先生も同行し、旧市街に向かう。3日間にかなり大量の写真を撮っている。それぞれ地図にマークし、ノートにメモを残し、なおかつ毎日パソコンに写真データを転送して確認しているが、あいまいなところがいくつか残った。見覚えのある建物を資料から見つけることもある。4日目は、B先生の案内を兼ねて、データの確認、補足から始めることにした。
 まず、総督府前からスタートし、徳県路を北西にのぼる。はじめにドイツ時代らしい住宅、続いて路徳公寓1907、さらに総督牧師1902が建つ。道沿いは比較的大きな住宅が続いているが、物証はなし。
 安徽路との交点に住宅1905が建つ。左手は天主教堂1933(写真)である。1933は日本占領期に続く中国・民国時代であるが、この間、壮大な聖堂の建設が進められたということは、キリスト教が青島に定着したことをうかがわせる。天主教堂の周辺には基心修道院1902、斯秦弥修会経言会会館1902、聖弥愛爾教堂付属建築1935などの、関連施設が集中する。
 天主教堂を見学後、浙江路を下り住宅1918、湖北路の水師飯店1902を見て、中山路へ出る。以上で歴史建築の記録調査は終了する。

 次いで、中山路を北上し、中国人街に向かう。写真は中国人街の一街区・向陽院で、50~60mの街区の外周を1階店舗、2階住居の建物が囲んでいる中庭式の集合住宅である。中庭は仮設的な住居が建て詰まっている。一部の街区は高層ビルに建て変わっている。トイレは共同で、炊事は中庭に面した回廊で行われるなど、住環境はよくない。住民は早急な建て替えを希望している。B先生は初めてなので、2006年9月に実施した間取り・住み方調査のお宅の案内を兼ねて図面の確認を行うことにした。不在の1戸を除き、歓迎してくれた。が、繰り返し、改修はいつから始まるのか、問われた。歴史建築の特徴を生かした早急な住宅改良の実現を期待したい。

 12時半過ぎ、間取り・住み方の確認を終了する。青島が初めてのB先生を青島ビール工場に案内し、ここで食事をとることにした。我々は当初予定の調査は終了しているので、青島ビールを楽しく飲むことができた。調査の皆さん、通訳のお二人さん、ご苦労様でした。

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