yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2017.10 孫のプレゼント無料宿泊券で長崎へ、カステラ一番電話は二番・文明堂本店を発見

2017年10月19日 | 旅行

2017.10 長崎を行く ①
                             
 娘家族が長崎に遊びに出かけ、にっしょうかん系のホテルで一泊したとき、孫がビンゴゲーム?でにっしょうかん1泊無料招待券をゲットした。その招待券をじ~ば~に贈ってくれた。ありがたいことである。
 好意に応えるべく、長崎に出かけることにした。ほかの予定などと調整し、10月6日・金曜~8日・日曜のJAL便と2泊目の宿を予約した。急だったため?、連休のため?、往路は朝便、復路は最終便しか空きがなかった。
 長崎では世界遺産・軍艦島を見学し、久方ぶりのハウステンボスでイルミネーションショーを実感するぐらいしか決めずに出かけたが、長崎に着いてから7日~9日は長崎くんちの大祭例大祭が行われることが分かった。孫のお陰で、長崎くんちの片鱗も体験できた。

 10月6日、朝5時半起きで簡単に食事を済ませ、家を出る。いつも思うが、羽田空港は意外と遠い。雨模様の天気予報だったが、出かけるときは曇りだった。いつも使っているキャリーバッグのキャスターの一つが、駅に着くころ二つに割れて動きが悪くなった。スーツケース、キャリーバッグはキャスターの故障が多い。悪路をごろごろ押したり引いたりしているから壊れやすいのだろうが、旅の途中で壊れるとお手上げである。だましだまし、キャリーバッグを引いてなんとか羽田空港に着いた。

 10:05発のJAL便は満席で、満席の混雑のため離陸が15分ほど遅れた。混雑を見込んで15分前から登場を始めれば予定時間に離陸できると思うが、航空会社にも言い分があるのであろう。最近は子ども連れが多くなった。若いパパ・ママも休暇を楽しみたいようだ。私たちは、子どもが小さいころは遠出を避けたが、いまは社会全体が子ども連れの外出を支援しているように感じる。少子化の歯止めになることを期待したい。

 
雲が多かったが意外と揺れは少なかった。長崎空港に向かって降下?と思いきや、緊急着陸の飛行があり、上空を旋回していたため、着陸は予定より40分ほど遅れた12:40になった。当初、着陸後すぐに長崎港へ向かい軍艦島クルーズに参加する予定を立てたが、時間が慌ただしいので2日目朝のクルーズを予約した。飛行機の遅れなどを予測して、時間に余裕を持つと気が楽である。

 ゲートを出たときは1時になっていた。長崎市内まで1時間近くかかり、それから昼食をとると夕食までの間が短くなる。空腹感がないと夕食を楽しめない。と言うことで空港でランチを取ることにして見回すと、長崎ちゃんぽんの店が目に入った。人気の店らしく列ができていた。列ができるほどなら味は確かだろうと、列に並んだ。回転は速く、ほどなく海鮮ちゃんぽんを食べることができた。
 「ちゃんぽん」はさまざまな具を混ぜ合わせる意味で使われ、「長崎ちゃんぽん」は中国・福建省の麺料理に由来するとの説がある。豚肉、ネギ・キャベツなどの野菜、海老・イカ・タコ・貝などの海鮮、蒲鉾などの魚肉生産品をラードで炒め、豚骨と鶏がらでとったスープで味を調え、そこにちゃんぽん用の麺を入れて煮立るそうだ。豚骨風スープ、中太の麺、山盛りになった具は癖になるほどおいしい味だった。完食し、スープも飲みきってしまい、満腹になった。夕食は大丈夫かな?・・。

 長崎ちゃんぽんを食べ終わって外に出たら、ちょうど長崎駅行きリムジンバスが出るところで飛び乗った。なんと、補助椅子を使うほどの混みようだったが、30-40分走った長崎新地でほとんどの乗客が降りた。どうやら中国からのツアーグループらしい。きっと長崎に詳しい中国人がガイドになり、リムジンバスを利用したのであろう。このあとも、中国、台湾、韓国を始め、外国人の自由旅行の人に会った。観光立国の推進が着実に進んでいる。

 長崎駅前でコインロッカーに荷物を預ける。手ぶらだし、満腹でもあるので、市電の通り=大波止通りを出島に向かって歩く。ホテル、銀行、オフィスなどが建ち並んでいるが、通りは広く、開放感がある。ところどころの入口に紫系ののれんを下げている。例大祭の準備のようだ。
 大波止交叉点の手前で海に向かって曲がり、軍艦島クルーズ船の受付場所を確認する。右手には準備中の屋台がずらりと並んでいた。左手には大型商業施設が建ち、賑わっていた。大波止交叉点に出る。ここも屋台の準備中で、ごった返していた。向かいに文明堂があった(写真、インターネット転載)。創業明治33年1900年の老舗である。子どものころからカステラ一番、電話は二番に馴染んできた。昔食べた甘みを思い出した・・最近は菓子を食べない・・。外観はいかにも古そう。創業当時の面影かも知れない。

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2007.2 中国・青島の歴史街区調査最終日、ドイツ時代の中国人街区を再訪後、青島ビールで打ち上げ

2017年10月17日 | studywork

2007.2 中国・青島の歴史街区調査3日目・4日目 沂水路~桟橋・徳県路~中国人街

 2007年2月25日、青島路を総督府1906に向かってのぼる。総督府は高台に位置し、湖南路とのあいだは公園になっていて、階段を上がると、総督府の偉容が目にはいる。前回は写真が撮れたが、今回は衛兵が怖い顔をして飛んできた。軍事機密でもないし、むしろドイツ時代の歴史建築を観光的にも活用した方がよさそうに思うのだが、無用のいざこざは避けたいので、総督府から青島湾の風景を撮影し、沂水路を北東にのぼる。

 沂水路の最初の建物、つまり総督府の隣が、徳国海軍第二官大楼1899(写真)である。ドイツの進駐が1897年であるから、進駐後、ただちに建てられた施設といえる。当時は海軍が主体であり、まだ治安も不安定で、海軍が主導権を握り都市造営が行われたのかも知れない。海軍第二官大楼に続き、ドイツ人の住宅1901・1907・1914が連続する。おそらく海軍将校だったのではないか。高台に堂々とした建物が連続している。

 沂水路のはずれ、江蘇路との交点は美国領事館1912で、江蘇路の先の高台には基督教福音堂1910(写真)が建つ。福音堂もざっくりとした割石を大胆に使った左右非対称のゼツェッションである。その当時、ヨーロッパでも斬新なデザインであっただろうし、ましてや中国人は目を見張ったのではないか。ドイツ撤退後、日本軍が青島を占拠するが、青島に花開いたドイツあるいはヨーロッパの新しいデザイン思潮は日本に伝わらなかったようだ。明治中~後期の日本にとってヨーロッパの古典的な様式の方が国威高揚にふさわしいと考えたのかも知れない。あるいは、ようやく明治維新後の国の形が決まりつつあるころで、とても新しいデザイン思潮を採り入れる余裕がなかったとも考えられる。

 福音堂から江蘇路を海に向かって下ると、すぐに総督府童子学童1901が建つ。このほかにも学校がいくつか見られた。つまりは、ドイツの租界地では軍人や商人だけではなく、家族がいっしょに住みついていたのである。租界地を形成すると同時に、家族がいっしょに暮らせる街をつくる、といった発想もなかなか日本にはできなかったようだ。江戸時代以来、地元と江戸に屋敷を構えて暮らすことを強いられてきたせいだろうか。単身で赴任し国や会社のために尽くす、ついでながら羽を伸ばし悪さもする、が黙認されるといった風潮は残念ながらいまも根強い。
 童子学童の向かいにはドイツ時代と思われる住宅が建ち並ぶが、確証はない。

 江蘇路と湖南路の交点に天主教会会宅1899(次頁写真)が建つ。残念ながら使われていない。湖南路を西にすすみ、黒氏飯店1924、ドイツ時代の住宅、さらに西に英国領事館1907(下写真)で、青島路に戻る。

 これで、旧市街の主だった道路を踏査したことになる。昼食を兼ねた休憩を取ることにする。やはり駅前あたりが安心できるので、駅まで歩き、今日は味千ラーメンにした。いわゆる中国料理のラーメンとは違い、麺もつゆも日本に近いが、むしろ日本のラーメンを中国人向けにアレンジしたといった方があってそうだ。20~25元だから、中国人にはやや高めである。

 昼食後、礼和商業大楼1902などをもう一度見ながら、桟橋に向かう。桟橋のたもとの説明には1892年建設とある。ドイツなどのヨーロッパ列強進出を食い止めようと清朝が軍船を集積し、そのために桟橋を設けたのか、あるいはあらかじめ青島進駐を目指すドイツが接岸しやすいようにと桟橋を設けたのか、説明版には建設年代しか触れていない。通訳の学生も真偽は分からないという。いずれにしても、1897年、ドイツはこの桟橋をつかって青島に進駐した。

 当初のドイツの都市図には桟橋のふもとあたりに駅が設定されており、当初はこの桟橋が貨客積み出しの拠点とされていたようだ。青島は鳥の頭のように先端が青島湾に突き出ている。桟橋から続く中山路をそのまま北上すると、すぐに北側の海に出る。ドイツの絵図などは桟橋のある青島湾からの眺めが描かれているが、よく見ると、北側の海も港湾として整備されており、1905年ごろに計画が変更された駅は、桟橋側と北側の港湾の両方に都合がいい立地になっている。都市建設や港湾労働者のための「中国人街」も北側の港湾に近い。ドイツは軍船や客船は桟橋のある青島湾、貨物積み出しは北の港湾と、使い分けていたのかも知れない。

 桟橋の先から、旧市街を見ると(写真)、太平路沿いの泛海名人酒店の右に徳華銀行1901、左に桟橋賓館1912、その左に中央飯店1904が当時の面影を見せながら建ち並んでいる。しかし、全体には高層ビルがひしめき合っていて、ドイツ時代の建築を探すのは難しい。かろうじて天主教堂1933をビルのすき間に見つけることができた。100年前のドイツの建築を生かすか捨てるか、オリンピックまでが正念場であろう。
今日は長崎総合科学大のB先生が合流する予定なので、桟橋からバスに乗り、ホテルに戻ることにした。

中国・青島の歴史街区調査4日目・徳県路~中国人街
 2007年2月26日、天気よし、B先生も同行し、旧市街に向かう。3日間にかなり大量の写真を撮っている。それぞれ地図にマークし、ノートにメモを残し、なおかつ毎日パソコンに写真データを転送して確認しているが、あいまいなところがいくつか残った。見覚えのある建物を資料から見つけることもある。4日目は、B先生の案内を兼ねて、データの確認、補足から始めることにした。
 まず、総督府前からスタートし、徳県路を北西にのぼる。はじめにドイツ時代らしい住宅、続いて路徳公寓1907、さらに総督牧師1902が建つ。道沿いは比較的大きな住宅が続いているが、物証はなし。
 安徽路との交点に住宅1905が建つ。左手は天主教堂1933(写真)である。1933は日本占領期に続く中国・民国時代であるが、この間、壮大な聖堂の建設が進められたということは、キリスト教が青島に定着したことをうかがわせる。天主教堂の周辺には基心修道院1902、斯秦弥修会経言会会館1902、聖弥愛爾教堂付属建築1935などの、関連施設が集中する。
 天主教堂を見学後、浙江路を下り住宅1918、湖北路の水師飯店1902を見て、中山路へ出る。以上で歴史建築の記録調査は終了する。

 次いで、中山路を北上し、中国人街に向かう。写真は中国人街の一街区・向陽院で、50~60mの街区の外周を1階店舗、2階住居の建物が囲んでいる中庭式の集合住宅である。中庭は仮設的な住居が建て詰まっている。一部の街区は高層ビルに建て変わっている。トイレは共同で、炊事は中庭に面した回廊で行われるなど、住環境はよくない。住民は早急な建て替えを希望している。B先生は初めてなので、2006年9月に実施した間取り・住み方調査のお宅の案内を兼ねて図面の確認を行うことにした。不在の1戸を除き、歓迎してくれた。が、繰り返し、改修はいつから始まるのか、問われた。歴史建築の特徴を生かした早急な住宅改良の実現を期待したい。

 12時半過ぎ、間取り・住み方の確認を終了する。青島が初めてのB先生を青島ビール工場に案内し、ここで食事をとることにした。我々は当初予定の調査は終了しているので、青島ビールを楽しく飲むことができた。調査の皆さん、通訳のお二人さん、ご苦労様でした。

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2007.2 中国・青島の歴史街区調査2日目・3日目=ゼツェッションの名残を残す青島駅から徳国公寓、徳国領事館など

2017年10月16日 | studywork

  2007.2 中国・青島の歴史街区調査2日目・駅前~湖南路へ

 2007年2月24日、中山路を桟橋まで下ったので一区切り、昼食を青島駅近くで取ることにして、中山路を湖南路まで戻り、西に折れて、駅に向かう。右手の東菜銀行1923を見てさらに進むと、駅前広場に出る。駅前はすでに高層ビルが建ち並んでいるが、さらに再開発が展開している。資料に記載されていたいくつかの建物は取り壊されてもうない。かろうじて青島駅=青島火車站1901(写真)がゼツェッションのスタイルをそのまま残していて、およそ100年前にドイツがここ青島に都市を形づくったことをしのばせる。

 駅前広場を見回すと、味千ラーメン、好一家の字が目に飛び込む。どちらも衛生的な感じである。海外では食の安全は気になるし、そのためにも衛生的な店がいい。今回はうどんを食べることにして、好一家に入る。10~15元=200円前後なので我々には高くないが、通訳をつとめる学生はちょっと高いという。

 食事を終え、駅前広場南の車站飯店1913(写真)、海沿いの礼和商業大楼1902を見る。前者はホテル、後者は商業ビル(貿易?)であり、青島駅周辺にも一定の都市整備があったであろうことをうかがわせるが、桟橋から東のドイツ人居住区に比べ、現存する歴史建築は少ない。駅周辺の再開発のためと考えられる。
 駅から広西路を東に進むが歴史建築は見つからず、中山路をこえてから広西路の一本北の湖南路を東に向かう。浙江路の角に鉄路小学校1900が建つ。向かいには鉄路住宅とされる集合住宅が建つが、確証無し。東に進み、安徽路の角に住宅1904、向かいに100年前?の住宅、徳国公寓1903などが建つ。住宅地として整備が進んだことをうかがわせる。

 さらに進んで、徳県路手前に膠奥帝国法院1914(写真)が建つ。徳県路の北は総督府1906で、湖南路のこの先には領事館などが建ち並ぶ。政治の中心をイメージした都市計画が目指されたようだ。総督府はやや高台に建ち、湖南路あたりから見上げる位置になる。100年前ごろは、青島湾についた船上から、総督府の居丈だけしい重厚な総督府が目にできたのではないだろうか。いまでも総督府正面から青島路が海へ一直線にのびていて、海への視界が確保されている。法院の向かいは開治酒店1913であった。


 時間は14時半、かなり歩いたし、日がかげってきたので、資料整理をすることにした。太平路に出て、泛海名人酒店向かいからバスに乗る。今回のホテルは新市街・ジャスコのバス停に近いので、分かりやすい。しかも1元と安い。2階だてバスに乗り込む。2階は頭を下げないと天井にぶつかるが、見晴らしはいい。30分ほどでジャスコにつく。ジャスコには、スターバックスも入っている。コーヒーを飲みながら、資料を確認、部屋に戻って資料をパソコンに入力し、今日の作業は終了である。

中国・青島の歴史街区調査3日目・太平路~広西路
 2007年2月25日、今日はだいぶ暖かい、9時にホテルを出て、バスで旧市街・泛海名人酒店前のバス停に向かう。
ここから、太平路を東に進むことにした。泛海名人酒店の並びに徳華銀行1901が建つ。かなり痛みがひどい。さらに東に、山東鉱務公司1902(写真)が建つ。ざっくり砕いた石積みや左右非対称の表現が特徴である。ドイツは青島進出で鉱物資源の掘削権を得ている。鉱務公司は鉱物取引の事務所であったと思えるが、お堅い仕事にもかかわらずゼツェッションの自由、斬新な表現を採り入れている。
 鉱務公司の先に坂井貞一邸1929(写真)が建つ。確証のある日本時代の建築は意外と少ないが、これはその一つである。いまは数家族が住宅にしている。その先に天后宮がある。現在の建物は1467年で、海の神様である媽祖を960-987にまつったのが始まりだそうだ。当時、このあたりが漁村であったことを裏付ける。さらに西隣が青島女中・二中1934で、このあたりで旧市街が終わりになる。そこで、常州路を北にのぼり、広西路を西に戻ることにした。

 まず総督府学校教学楼1906が建つ。現在は海軍で写真撮影禁止。江蘇路との交点にCooke邸1914、Marshall邸1914ほかが建つ。イギリス商人だったそうで、大勢の商社や商人が集まっていた証になる。さらに西に進むと、ドイツ時代らしい住宅が連続する。いずれも物証がないが、さらに西に、同じスタイルの徳国神甫姫宝璐1914(写真)が建つ。このあたりもドイツ人達の居住区として整備されたのではないかと考えられる。その先は総督府前の青島路で、徳国領事館1912が建つ。

ここで休憩、泛海名人酒店でコーヒーを飲みながら、資料を確認する。泛海名人酒店のコーヒーは25~30元なので、いかにここのコーヒーが高いか想像できよう。昔の兌換券を使っていたころの外国人料金を思い出させる。その分、味はいい。一息したら出発である。

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2007.2 中国・青島の歴史街区調査、目抜き通りの中山路を桟橋に向かって下る

2017年10月14日 | studywork

2007.2 中国・青島の歴史街区調査2日目・中山路を下る
                             
 1897年、青島に上陸したドイツはただちに都市建設に着手した。当時、ヨーロッパ列強が次々と中国大陸に進出しており、ドイツも遅れまいと1895年に地質などの調査を実施していて、1986年には膠州湾への上陸を決定したといわれる。当時の膠州湾では細々と漁業が営まれていただけだったらしい。

 1898年のドイツによる都市図(右図)には膠州湾岸東側に「TSINTAO STADT(青島村)」の名が見える。この青島村が現在の都市名の元になっている。同図には、湾の中ほどに桟橋が描かれ、桟橋からほぼ真北に道路が描かれている。この道路が、ドイツ時代にFriedrich Str.と呼ばれた現在の中山路である。

 1902年の青島絵図によると、湾岸沿いのいまの太平路沿いと、中山路沿い、中山路の北・東側に街並みがしっかりと描かれている(右図)。太平路沿いやその奥の広西路沿いはa065に紹介したホテルや集合住宅などが建ち並ぶドイツ人街として計画された。一方、中山路の北・東には1898年都市図に「Chinesen Statd(中国人街)」とある街区が計画された。ここは、建設や港湾で働く中国人、およびもともと青島村に住んでいた人々の代替え地として整備された。

 この中国人街の調査が今回の青島における歴史街区研究の始まりで、比較的よく保全されてきた街区を取り上げ、2005年度日本建築学会大会に「向陽院の住み方」として報告した。今回の調査には初めての参加者もいるので、2日目の朝一番に向陽院などの中国人街区を見て回った。およそ50~60mの街路で囲まれた街区の四方を2階建ての建物が囲み、中庭に低層高密の住居が建て込んだ構成は、何度見ても印象的であり、初めて見た人の声を奪うほどである。中国人街区を一通り見てから、中山路の北端に向かう。

 中山路は南の海に向かって緩く下っている。いまは高層建築があちこに建っているため海は見えないが、かつては中山路から見下ろせば、海に並ぶドイツの船隊や桟橋が見えたのではないか。1902年の青島絵図ではまだ中山路沿いの建築は少ないが、ドイツ時代、続く日本占領時代にも中山路沿いの開発が進み、旧青島市街の中心的な商業街区を形成した。その名残を記録しようと、中山路に面した歴史建築を中心に見ていくことにした。

 中山路北側から、中山路西に膠澳商埠電気事務所1909(上写真)、東に福生徳茶庄1939(下写真)が建つ。前者はドイツのゼツェッションスタイルを連想させる。後者は日本時代であるが、消費者は中国人であろうし、このあたりに大勢の中国人が定着してきたことをうかがわせる。

 福生徳茶庄をさらに下る。中山路は青島旧市街の目抜き通りで、大勢の人で賑わう。歴史建築の古い面影をそのまま残す建物は少なく、通り側に大きな看板をつけた商店、現代的な雰囲気に改装をした店舗、建て替えられた事務所などが軒を連ねる。2006年調査では中国人街区の外観実測採図調査を行ったが、調査中に改修工事が始まり、調査の始めと終わりでは外観が変わってしまったこともあった。日進月歩に合わせて模様替えをしないと人々から忘れられてしまう、とでも言うかのように、改修が行われていく。中国人にとってそれが生き生きいしている証であろう。一方、裏通りに入ると、旧態依然の外観をみせる街並みが続く。その分人通りも少なく、街並みがさびれている。

 福生徳茶庄から少し下った西側に4連続店舗で、中央にアーチの入口をもった3階の建物があった。100年前ぐらいとのことだったが、確証なし。少し下って北京路を西に入ると壁面上部に1932と書かれた謙祥益がある。ファサード上部にできあがった年数を入れる建物は、私たちのような調査には好都合である。謙祥益をのぞくと問屋のようであった。

 中山路に戻って下ると、東に交通銀行青島分行1931、西に義集合銭庄1930、さらに、東に亨宝商業大楼1904、西に青島商会1921が建つ。年代にズレがあるが、中山路の中核をなす銀行や事務所、商会の集積がこのあたりから始まってくる。

 さらに下る。肥城路との交点に建つ大陸銀行1934の角はマクドナルドが入っているので、ここで休憩を取ることにした。日本ではマクドナルドに入ったことはないが、青島調査では、ほかの食堂よりも衛生的に見え、なにより清潔なトイレがあるので、時間調整を兼ねて毎回利用する。値段は一人5元ていど=80円ぐらいなので安いともいえるが、中国の庶民感覚としてはやや高め。利用者は若い人が多い。

 大陸銀行から始まるこの街区(上写真)は、上海商業儲蓄銀行1934、山左銀行1934、中国銀行青島分行1934が連続する。高さも外観のスタイルも類似するし、同年代=日本第2次占領期であることから、日本がこのあたりを商業業務核として積極的に開発をすすめようとしたことをうかがわせる。

 さらに下ると高層ビルや観光用商店に続いて、膠州旅館1908?(下写真)、桟橋近くの青島倶楽部1911で、中山路沿いの歴史建築が終わる。このほかにも歴史建築らしい建物は少なくないが、物証に乏しく年代を特定できないので、資料として記録するにとどめた。

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2007.2 中国・青島の歴史街区を調査、太平路~広西路でドイツ時代の徳国膠州郵政局などを記録

2017年10月13日 | studywork

 2006年9月、ドイツによる都市計画をいまに残す中国・青島の歴史街区調査を始めた。続きの調査を2007年2月に実施した。その概報を順次、再掲する。写真はホームページ参照。

2007.2 中国・青島の歴史街区調査初日・太平路~広西路あたり

 青島歴史街区調査は、2007年2月23日から27日に行った。
 成田-青島の直行便を利用すると、成田行きの早朝発が朝早く厳しいが、昼過ぎにはホテルにチェックインでき、午後に現地での調査をスタートさせることができる。ということで、今回は正味3日半の調査になった。
 調査隊は、これまでの調査に参加した3名と初めての参加の1名、計4名と、Q大学で日本語を専攻し、前回から私たちの調査に通訳として協力してくれているS君、同じく日本語専攻で、始めて通訳をお願いするD君の2名、私を入れて計7名、授業のあいまに応援に駆けつけてくれるS副教授の構成になる。

 成田-青島の直行便と5星のホテルのパックツアーがあり、航空券とホテルを別々に購入したときのおよそ半額と、格段に安い。この安さが4名も同行できる理由である。新市街の中心に位置するホテルにチェックイン後、ロビーでS君、D君、S先生と合流、さっそく調査地である旧市街に移動する。タクシーで20分ぐらい、10~15元=160~240円である。

 まず、青島湾に面した太平路沿いの泛海名人酒店のコーヒーショップに入る。この泛海名人酒店(下写真)はドイツ時代の1906年に亨利王子飯店として建てられたが、その後、いまの泛海名人酒店に建て替えられた。それでもヨーロッパの雰囲気は十分であり、コーヒーも値段は高い(25元=400円)が美味しい。
 ここで、今回の主たる調査の狙いを確認し、H・M君とD君、T・M君とS君の2組に分かれて調査を進めることにした。手始めに、太平路、その奥の広西路に建つ歴史建築を見て回り、記録の取り方をならした。

 記録した主な歴史建築は、泛海名人酒店の西隣に建つ旧亨利王子飯店の一部を利用した現桟橋賓館1912(上1写真)、その西隣に青島日報社・旧中央飯店1904(上2写真)、安徽路を北にのぼり広西路との交点に建つ徳国膠州郵政局1902(上3写真)、広西路を東に進み紅房子餐庁1905(上4写真)、さらに東に侯爵飯店1906(上5写真)が建つ。中山路に戻り、南に下ると青島倶楽部1911(次頁上写真)、東に青島大礼堂1935(次頁下写真)、泛海名人酒店を過ぎた向かいが徳華銀行1901になる。

 実際には、現在の建物に旧名称や建築年代が書いてあるわけではない。一部の建物に青島行政府がドイツ時代の重点建築として銘板をつけていることもあるが、数はいたって少ない。そこで、歴史建築の記録調査は、
①まず歴史的な建築を見つけ、写真を撮り、地図に位置をマークする。多くの建築は道路の反対側に行かないと全景が取れない。そのため、行ったり来たりが繰り返される。
②次いで通訳のS・D君に、住んでいる人か近くにいる人に建築年代や旧名称などを聞いてもらう。100年も前の話であるからほとんど正確なことは分からないが、手がかりはけっこうある。さらに、中を見せてもらえるか聞いてみる。通訳の二人が調査の主旨を簡単に説明してくれているので、対応は親切であるし、気さくに中を見せてくれることも多い。
③聞き取りや建物の特徴、現在の使い方や様子などをノートに記録して、次の建築に移る。

④青島の歴史建築を紹介している資料もいくつかあり、とりわけ網羅的に歴史建築を収録している「青島城市老建築」は重宝なのでいつも携行していて、歩きながらめくり、「老建築」と対照できたときはノートにページを入れておくことにした。

 青島の2月は三寒四温がはっきりしている。日が射すとコートがいらないほどポカポカだが、氷のような霧が覆い始めると鉛筆が持てないほど寒くなる。この日も午後4時半頃から寒さが厳しくなってきたので(気温11°湿度36%)、調査を切り上げることにした。

 帰りは、30分以上かかるが、わずか1元(16円)のバスに乗ってホテルに戻った。100数年前の初めての中国・上海では来るバス来るバス、すべてあふれるほどの超満員で往生したが、いまは交通網が充実してきている。バス路線や降りるバス停名が分かれば、値段も安いし、道路はバス優先なので便利である。
 ホテルに着いてからは、夕食までにデジカメの写真とノートの調査記録を照合、整理し、改めて「老建築」をめくっては対照できる歴史建築を探して一段落、夕食となる。

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