yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

1996 中国・青島に残るドイツ・ゼツェッションの秀作、福音教会や旧総督官邸を見る

2017年10月10日 | 旅行

1996 中国山東省・青島でゼツェッション発見
                             
 1996年は、春に続き夏も中国山東省の民家調査を行った。中国東北部には、カンと呼ばれる暖房寝台が普及している。かつてはカマドの燃料はマキや石炭が主で、この煙を寝台の下に通して暖をとる方法である。ところが中国沿海部の経済発展はめざましく、呼応して意識面での自由化とともに物的な発展が急速に進んだ。住宅にはプロパンガスや温水ボイラー、ベットが導入され、カマドやカンは脇役になり始めたのである。当時、私の関心はカンのある住宅の現代化にあり、その課題と計画手法の提案を目指していた。

 春の調査では煙台市の海沿いに建つズフーホテルに泊まった。海には漁船が行き来していて、いい眺めだった。そのときはズフーの意味が分からずそのままにしていたが、あとで煙台市の旧名であることが分かった。
 清の時代、いまの山東省あたりの中心は済南であり、ズフーは小さな漁村に過ぎなかった。ところが清末期より欧米の列強が次々と中国への進出を図り始めた。当時は船と鉄路が主役だから、列強はまず開港を求め、足場を固めてから口実をつけては内陸への鉄路を敷設するやり方で領有権を確かなものにしていこうとした。ズフーが開港され、急速に発展して煙台になったのはこのころになる。

 夏の調査では莱州市が中心になったので、少し足を伸ばして青島まで行き、それから北京経由で帰国するコースにした(その当時は成田-青島の直行便はまだ飛んでいない)。青島といえばビールが思い出されるが、ビールのために青島経由にしたわけではなくこの町がドイツ人によってつくられたためである。
 清末期に列強が中国進出を図っているなかでドイツは出遅れてしまった。主要なところはほとんど領有されていたし、清も何とか欧米に巻き返しを図ろうとしていたから、ドイツにはなかなか進出の機会がなかった。そんな折り、ドイツ人宣教師が山東省で殺害される事件が起きた。殺されたドイツ人も不幸だが、中国も不幸なことにドイツ軍はこれを理由に山東省に攻め入ったのである。
 そして、寒村であった青島を開港させ、ここを拠点に済南までの鉄路を建設した。草ぼうぼうの青島にドイツは思い通りの都市建設を進めたといわれる。その片鱗をかいま見たい、これが青島に向かった動機である。

 莱州を朝出て青島に着いたのが昼、翌朝の飛行機までの半日が見学の時間になる。まず青島湾を見下ろす高台のホテルにチェックイン、ここで湾の構図を頭に入れ、次に埠頭に出て斜面に建ち並ぶ建築群をマーク、続いて海沿いに建つ桟橋賓館を訪ね、その後、旧総督府1906に向かい、欧州人街を見たあと青島福音教会1908(上写真)に感激し、旧総督官邸1906の秀逸なデザインに釘付けになって、ここで時間切れになった。(下写真)。

 教会も官邸も伝統の様式にとらわれない自由な空間デザインを表現していた。外観はいずれも非対称だが、実によくバランスしていて安定感があり、素材のもつ性質や一つ一つの丹念な造形がそれぞれ主張しあうのではなくよく調和し空間を豊かにしていた。
 教会や官邸の重々しさや威圧感は微塵もなく、むしろ大らかな暖かみさえ感じた。そのころ、ヨーロッパで起きていた新しいデザイン思潮=ゼツェッションが開放されたばかりの青島で花開いたのだと思える。中国侵略という土俵の上に成り立っている事実の一方で、自由な空間デザインのもつ感性への働きかけも確かに感じる。

 夕食に向かう車から見た新しい都市デザインの開放感はその影響のように思う。捨てがたい遺産がここにものこされていたのである。

 余談、このことがきっかけで、2004年から本格的な青島歴史街区調査が始まることになった。

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