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2008正月 寅さんの舞台、葛飾柴又の帝釈天を参詣→親鸞・浄土真宗の築地本願寺を参拝

2017年04月16日 | よしなしごと

2008 「柴又帝釈天・築地本願寺」
 2008年の正月、葛飾柴又の帝釈天に出かけた。
 葛飾柴又といえば、男はつらいよで一世を風靡した寅さんのふるさとである。映画館で寅さんシリーズを見たことはないが、テレビでは何度か見たし、とりわけ1996年に渥美清氏が亡くなってからは全48作のシリーズが放映され、寅さんを見る機会に恵まれた。そのたびに登場するのが、帝釈天であり、団子屋である。団子屋の「くるまや」は実際には大船の撮影スタジオのセットだそうだが、映画で見る限りは帝釈天への参道の店構えを思わせる。
 百聞は一見に如かず、柴又に出かけることにした。JR日暮里駅で京成線に乗り換え、高砂で京成金町線に乗り換える。列車内は帝釈天を目指す人で混み合い、柴又駅でいっせいに降りる。駅員が声をからして帰りの切符を早めになどと案内するが、ざわめきが勝りよく聞こえない。駅前に人だかりができていて、携帯などで写真を写しているのでのぞくと、寅さんスタイルの銅像があった。実物大のように思うが、にこやかな顔で、いまにも話しかけてきそうな雰囲気である。
 混み合っているので迂回路を通り帝釈天に向かう。正式には経栄山題経寺といい、寛永6年1629年に創設された日蓮宗の寺である。
 そもそも帝釈天とは、梵天と並ぶ仏教の二大護法神で、仏教の発祥の地インドの最古の聖典「リグ・ヴェーダ」に頻繁に登場する軍神サックロ・デヴァーナーム・インドラSakro Devanam Indrah、略してインドラのことだそうだ。サックロ=音訳で釈、デヴァーナーム=意訳して天、インドラ=意訳の帝を組み合わせ、日本では帝釈天と呼んでいる。
 帝釈天は須弥山に住む慈悲に富んだ神だが、仏陀の教えを聞くまでは阿修羅と戦った荒々しい神でもあったそうだ。帝釈天はまた、東の持国天、南の増長天、西の広目天、北の多聞天=毘沙門天を統率していて、題経寺では参道正面に建つ二天門の右に増長天、左に広目天、帝釈堂内の本尊の両側に持国天と多聞天が置かれている。
 正月の題経寺境内には屋台が並び、大勢の初詣客がごった返していたせいもあって、映画で見るより小さく感じる。映画にたびたび登場する鐘楼も意外と小ぶりに見える。帝釈堂正面は大きな賽銭箱が設置されているので右手の脇階段から堂内に入ると、壁面を飾るみごとな木彫に目を取られる。深みのある、細部までしっかりと彫られた彫刻でゆっくりと鑑賞したいところだが、堂内が暗いのと参拝客の波に押され、じっくりと見ることができなかった。帰宅後、ホームページを検索したところ、法華経の説話を選び出し、大正~昭和初期に、加藤寅之助師らの彫刻師が彫り上げたとの説明があった。これだけでも参拝の価値はある。
 帝釈天本尊、左右の持国天、多聞天も暗くてはっきりとは見えない。神がかったものははっきり見えない方が想像力をかき立て、印象を強くし、信仰心を高めるのかも知れない。参拝を済ませ、人波みに押されて境内を出る。
 二天門は総欅造り、2層である(写真)。参道から見返ると、大きすぎる屋根が壮大さを演出している。屋根は入母屋だが、平側中ほどに千鳥破風と唐破風の小屋根が2段に重なる特異なつくりである。これも壮大さを強調している。
 参道は、映画に出てくるくるまや風の店が軒を並べ、大勢の人で賑わっていた。映画の参道よりも狭く、2階建て平入りの店が並び、二天門への視線を強めている。
 狭い参道、軒を連ねた2階建ての店構え、アイストップに建つ壮大な二天門の空間構成は見事である。参道は途中でくの字に折れていて、駅から来ると最初は二天門が見えない。くの字で折れた途端、アイストップに壮大さを強調された二天門が表れる演出である。映画は大船のセットであるためこの空間構成は出てこないが、山田洋次監督は実際の参道+二天門の強調された構成をヒントに帝釈堂+鐘楼+境内を大きくみせる撮影をしたのかも知れない。
 いずれにしても一見の価値はあった。

 京成金町線・柴又駅から途中で地下鉄に乗り換え、日比谷線・築地駅に向かった。目指すは築地本願寺である。
 築地本願寺は1983年3月にインドを訪ねたあと、見に行ったことがある。理由は、インドでアジャンタAjantaの仏教石窟寺院、エローラElloraのヒンドゥー石窟寺院に感動した前後に・・20年以上前のため記憶が定かでない・・、日本の建築史学の草分けとも言える伊東忠太(1867-1954)が日本の仏教の原点を訪ねて1901~に中国や現ミャンマー~インドを旅をし、そこでの体験を下敷きにして築地本願寺を設計したことを読んだためである。
 通常、仏教寺院といえば、入母屋瓦葺き・木造の大伽藍を思い浮かべるのではないか。最近はコンクリート造や鉄骨造の寺もあるが、それでも木造伽藍の雰囲気をとどめたデザインが志向されることの方が多い。
 ところが伊東忠太設計の築地本願寺(写真)はそうした既成概念を見事に打ち砕いてくれた。通常の木造伽藍を荘厳と表現するなら、築地本願寺は壮麗の言葉がふさわしい。2008年のパンフレットには古代インド仏教様式とあるが、1983年に築地本願寺を見たときは、アジャンタの岩山をくりぬいて掘り出された石窟寺院を彷彿とさせた。正面入口に並ぶ柱の石組みや半円形の屋根を縁取る石貼りなどの石造のデザインを採り入れた全体的な様相がインドの石造建築を連想させたようだ。
 ただし今回は、築地本願寺が浄土真宗であることで足を向ける気になった。私ごとだが、父の葬儀は、大森のK寺で執り行った。父の実家は曹洞宗であったが、急な他界のため母が口づてにK寺にお願いしたところ、もう故人になられた前住職が快く引き受けてくれた。このK 寺が浄土真宗である。墓地は当時の大宮市営霊園にし、大森からではあまりにも遠いので、同じ浄土真宗である上尾のM 寺に以後の法事をお願いしてきた。母、妹の葬儀も大森のK 寺で、法事は上尾のM 寺で行った。その都度感じるのは、読経も心を打つが説話がたくみなことである。落ち込んでいる私たちを励まし、元気づけ、南無阿弥陀仏の意味を諭してくれて、気持ちを落ち着かせてくれる。光教寺でも聞乗寺でもそう感じていた。これは浄土真宗のあり方かも知れない。
 浄土真宗とは、鎌倉時代初期、法然の弟子親鸞(1173-1262)が、法然の教えである浄土宗を大衆にも分かりやすい形に発展させた宗教である。親鸞の教えはさらに蓮如に引き継がれ、大衆に広まっていった。浄土真宗は門徒宗、一向宗とも呼ばれ、信徒は門徒さんとも呼ばれる。本尊は阿弥陀如来で、教典は浄土三部経といわれる仏説無量寿経、仏説観無量寿経、仏説阿弥陀経である。ということで築地本願寺には自然に足が向いた。
 正式名称は浄土真宗本願寺派本願寺築地別院で、元和17年1617年に浅草橋近くに建てられたのが始まりである。ところが、振り袖火事として知られる1657年の明暦の大火で焼け落ちてしまう。江戸幕府は再三の火災に頭を痛めていて、火除け地をとるなどの復興整備をすすめていたため、築地本願寺は八丁堀の現在地に移ることになった。当時はこのあたりは海だったらしく、佃島の門徒が中心に埋め立てをし、1679年に再建された。が、1923年の関東大震災で本堂を焼失してしまう。そして、伊東忠太に本堂再建の依頼がなされることになる。1931年に着工し、1934年に竣工した。これを目にした門徒衆は驚嘆の声を上げたのではないだろうか。堂々としていて壮麗であるし、いわゆる木造伽藍とはかけ離れているものの、違和感を感じさせない。むしろ開放的に迎え入れてくれる雰囲気がある。インドの風土の反映もあるかも知れないが、浄土真宗の分かりやすい大衆に開かれた教えを伊東忠太が建築化したと思いたい。
 堂内には次々と初詣に訪れる人がいるにもかかわらず、静かな時間が流れている。内陣の阿弥陀如来に手を合わせ、南無阿弥陀仏を唱えると気持ちが安らいでくる。本堂はコンクリート造だから柱はコンクリートだが、木造伽藍の寺院も大木の柱がスパンをとばして立つためよく似た空間構成になり、天井も折り上げになっていて、こうしたつくり方も違和感を打ち消している。
 このあと、歩いて銀座を抜けJR有楽町駅に向かったが、次々と新しさを競う建築群に比べ、築地本願寺に揺るぎない存在感を感じた。伊東忠太の仏教の真髄を見るためインドまで出かけて身につけた力量か、はたまた法然・親鸞・蓮如らの諭す信仰の力か。南無。

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