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2023.1京都 国家安康の鐘&京都国立博物館

2023年10月02日 | 旅行
 2023.1 京都 方広寺+豊国神社+国家安康の鐘+京都国立博物館を歩く


 伏見稲荷大社参拝後、京阪本線伏見稲荷駅から七条駅に向かう。七条駅から県道113号線=七条通を東に上る。右向こうに三十三間堂、左向こうに京都国立博物館を見ながら、大和大路通を北に曲がった先に方広寺、豊国神社がある。目指しているのは徳川家康が豊臣家滅亡の口実にした国家安康と刻まれた鐘である。
 豊臣秀吉(1537-1598)健在のころ、秀吉は東大寺大仏(高さ14.7m)を上回る盧舎那仏を発願し、1595年、現在の方広寺に高さ約19mの木製漆塗金張坐像の大仏が完成した。大仏殿は南北88m、東西55mと推定され、1603年に完成する。現在の大和大路通には大きな石垣が築かれているが、これが当時の大仏殿=方広寺の石垣の名残である。
 当時は方広寺ではなく大仏殿と呼ばれたようだ。1596年の慶長伏見地震で大仏は損壊、1603年に大仏殿が焼失、1612年に2代目大仏2代目大仏殿が完成するが、1662年の寛文近江・若狭地震で2代目大仏が損壊、1667年に3代目大仏が完成するも、1798年の落雷で3代目大仏、2代目大仏殿が焼失、1843年に4代目大仏3代目大仏殿が完成する。
 明治維新後の廃仏毀釈で方広寺の大部分が収公され、現在の規模になった。石材なども転用された。後述の国家安康の梵鐘は残されたが、鐘楼は解体された。
 1973年、失火で4代目大仏、3代目大仏殿ともに焼失し、現在は基壇などの痕跡を残すだけになった。


 1598年に没した豊臣秀吉は、翌1599年に大仏殿=方広寺の東の阿弥陀ヶ峰に埋葬され、麓に廟所=豊国神社が建立された。1615年の豊臣氏の滅亡後、徳川家康の意向で豊国神社は廃絶される。
 1868年、明治天皇は豊国神社再興を布告、1880年に方広寺大仏殿跡地に社殿が建設された。これが現在の豊国神社である。
 もと二条城の唐門で南禅寺塔頭金地院に移されていた唐門が豊国神社に移築された(写真、国宝)。大きな唐破風が特徴の唐門は桧皮葺入母屋屋根で、金細工を施し、浮き彫りの彫刻が施されている。もと二条城の唐門は伏見城の唐門だったとの説もある。絢爛豪華さは秀吉好みということであろう。
 方広寺と豊国神社のあいだに鐘楼が建つ。1614年、豊臣秀頼は秀吉の追善供養のため、大仏殿=方広寺に鐘をつくる。鐘上部の銘文に「国家安康」「君臣豊楽」が刻まれていたことから、家康の文字を二分して呪詛し、豊臣を君主として楽しむという底意がうかがえると家康が激怒し、豊臣家滅亡の火種となったいわく付きの鐘である。
 高さ4.2m、外径2.8mの鐘は豊臣家滅亡後、そのまま放置された。徳川時代は触らぬ神に祟りなしということだったのであろう。
 明治時代、豊国神社再興に続き、1884年、鐘楼が建て直され、鐘が吊り下げられた(写真)。天井は、もと伏見城の女性用化粧室の天井画だそうだ。それまでの所在は説明されていなかったが、絢爛さはうかがえる。
 唐門で豊国神社に一礼し、石鳥居をくぐり、石段を下り、大仏殿の名残を伝える石垣を見ながら、大和大路通を南に戻る。


 左に京都国立博物館が建つ。もともとは方広寺境内だった敷地で、1895年、片山東熊(1854-1917)の設計で帝国京博物館が建てられ、1897年に開館した。片山東熊は工部大学校造家学の1期生で、辰野金吾らとともにジョサイア・コンドルに学び、卒業後、宮内省で多くの作品を手がけた宮廷建築家である。
 帝国京都博物館(現在は明治古都館と名づけられている)は、片山東熊得意のネオルネサンス様式でデザインされた(写真、重要文化財)。当初は3階建てが計画されたが1891年の濃尾地震で煉瓦造の被害が大きかったため、煉瓦造平屋建てに変更されたそうだ。
 表門は大和大路通に面していて(前掲写真)、円形噴水、ロダン(1840-1917)作「考える人」(写真)の先に堂々+華麗な正面玄関が見える。
 表門からは判然としないが、正面上部のペディメントには仙人?仙女?が浮き彫りされている(写真)。片山東熊は旧東宮御所=現迎賓館赤坂離宮や東京国立博物館表慶館でもユニークな浮き彫りをデザインしていて、重々しい建物ながら軽快感を演出している。

 表門は使用されておらず、七条通の南門が出入口になる。南門は後述の谷口吉生の設計で、ミュージアムショップ+カフェが併設されている(次頁写真)。カフェは前田珈琲の経営で、ここで京都国立博物館+庭園を眺めながらランチを食べた。
 ランチ後入館した。一般700円だが70歳以上は東京国立博物館と同様、無料である。旧帝国京都国立博物館本館=明治古都館は免震改修などの計画中で閉館されていて、代わって2013年完成、2014年開館の平成知新館(写真)で展示が行われていた。
 平成知新館は谷口吉生(1937-)の設計で、明治古都館-表門の軸線に平行して、庭園の北側に建つ。前面に水面を配置した横長の簡潔なデザインで、東京国立博物館法隆寺宝物館に共通する谷口吉生らしさを感じる。 
 平成知新館エントランスの床や館内ホールに、方広寺の南之門跡、回廊跡の柱の根石の位置が示されている。方広寺=大仏殿がいかに広大だったかがうかがえる。
 平成知新館は地上3階、地下1階(講堂)で、3階に古代の出土品、陶磁器、2階に絵巻、仏画、中世・近世・中国の絵画、1階に彫刻、書跡、染色・金工・漆工の工芸品が展示されていた。1階奥の特別展示室は新春特集「卯づくし」の展示で、兎の登場する工芸品が並べられていた。季節感のある特集展示は分かりやすい。
 庭園に面したロビーで一休みしながら、狩野松栄の次男=狩野永徳の弟である狩野宗秀が描いたとされる「韃靼人狩猟・打毬図屏風」の高細密複製画を眺める(写真)。
 狩野派らしい金箔を大胆に用いた動きのある表現である。高細密複製画の活用を広げ、国宝、重文の屏風絵、壁画、天井画が身近に鑑賞できるのを期待したい。 
 (2023.10)

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