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2016年、赤穂・大石神社は四十七士が祭神、岡山後楽園は川の水を引き込んだ池や流れがポイント

2016年04月11日 | 旅行

2016.3.16水~3.18金 姫路-倉敷-赤穂-岡山の旅 3 赤穂・岡山 /2016.3記

 2016年3月、国道250号線の播州赤穂駅あたりから右に折れると赤穂城跡に出る。城門と櫓も復元されていたが、城跡は公園化されていて、復元はほんの一部に留まっていた。
 城は千種川の河口に築かれている。海岸の平城は珍しい。かつての赤穂藩は塩田開発で栄えたから、海を見張り、海に備えるため河口に築城したのであろう。
 走っていたら、左手に情報物産館があったので車を止めた。
 駐車場の横がポケットパークになっていて、そこに瓦葺き切妻屋根を乗せた息継ぎの井戸が整備されていた。
 江戸城で浅野内匠頭が刃傷事件を起こしたのが、元禄14年=1701年3月14日、お家の一大事を伝えるべく藩士2名が夕方早カゴに乗って出発する。赤穂までは620km、4昼夜半揺られ続け、3月19日早朝、この井戸の水を飲んで一息つき、赤穂城へ向かったそうだ。
 620km/4.5日*24時間≒5.7km/時、早足で歩いて6km/時といわれるから、揺られ続けた藩士も身体ががたがたになっただろうが、カゴかきも疲労困憊、交替したら腰が抜けたのではないだろうか。
 大石神社に向かう。大石神社は大石内蔵助をはじめ四十七士を祭神とする神社で、討ち入り300年の際に一新されたそうだ。
 参道には四十七士の石像が並び、映画に出てくるような身振りで参拝者を迎えていた。本社は入母屋屋根に唐破風と千鳥破風の向拝をのせ、控えめな華やかさで仕上げられていた。
 岬の突端の潮彩きらら祥吉に泊まり、瀬戸内海を眺めながら、湯を楽しんだ。

 翌朝は、岡山後楽園に向かった。
 後楽園は、1687~1700年、岡山藩主池田綱政の命で築園された。
 岡山城の後ろにあることから「後園」と呼ばれたが、明治に入り「先憂後楽」の精神で造園されたことにちなみ「後楽園」と改称されたそうだ。後園より後楽園の方が語呂がいい。
 岡山城は北から南に流れる旭川を自然の堀として活用するため、城の北~東~南をぐるりと包みこむように流路が整備された。
 社会が安定し、藩の財政にもゆとりが出てきて、流域が広がった城の北東側の旭川の中に後楽園がつくられた。だから後楽園も川に囲まれていて、川の水を引き込んだ池や流れが後楽園を特徴づけている。
 川の中の立地のため、かつては湿地を活かして田畑が広がっていたそうで、いまでもその名残を伝える「井田」には大賀ハスが植えられていた。
 その先の「流店」は亭舎の中に水路を通してあり、涼しげである。夏であれば、足湯ならぬ足水で暑さをしのげそうである。
 8つの橋が互い違いに組み合わさった「八橋」を渡り、「廉池軒」を眺め、「花葉の池」沿いを巡り、「能舞台」、「延養亭」を見上げていたら、通りがかったボランティアガイドが立ち止まってガイドをしてくれた。
 オモテナシの行き届いた庭園である。

 これで、2泊3日、姫路-倉敷-赤穂-岡山の旅を終えた。昔の記憶を刷新し、新たな出会いを重ね、いい旅だった。

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