よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

5月例会「大分(だいぶ)を歩く」(福岡県飯塚市筑穂町)

2023-05-07 16:05:51 | ふくおかウォーキング協会

5/6(土)ふくおかウォーキング協会5月例会は、「大分(だいぶ)を歩く」でした。

この日、福岡地方は、大雨の予報。然し午前6時時点では、雨は降っておりません。(会の規約では、6時時点で大雨警報が出ていれば中止になる)

雨の予報からか、事前参加登録者は、30人ぐらいでしたが、参加者は、20人でした。

集合場所は、JR福北ゆたか線「筑前大分(だいぶ)駅」。私、この地を歩くのは初めてです。

大分(だいぶ)」という地名は、難解地名ですね。調べてみると、神功皇后は、三韓征伐から帰国後、糟屋の宇美にて応神天皇を出産され、大口獄(ショウケ越のことかな?)を

超えて当地に至ります。皇后は、ここで引率した兵士を解隊し、それぞれの故郷に返します。以来この地を「大分(おおわかれ)」と呼んだのが「大分(だいぶ)」の地名の始まりと

されています。なお、ショウケ越とは、糟屋郡須恵町と飯塚をまたぐ県道60号線の峠です。ショウケとは、竹で編んだザルの一種である笊笥(そうけ)が訛ったもので、神功皇后が

宇美町で応神天皇を出産された際、ショウケの籠に入れて峠を越えたことからその名が付きました。

また、「飯塚(いいづか)」という地名は、大分で解隊された兵士たちは、尚、皇后の徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔を拝し奉らん」と深く歎を慕ったといわれ、

名付けてイヅカ(飯塚)の里と伝えられたといわれています。(諸説あります)

このように、神功皇后とのかかわりのある地です。

現在、大分のある筑穂町は、2006年(平成18年)飯塚市と合併しましたが、町内には、旧長崎街道が貫いており、内野地区は、筑前六宿の一つ「内野宿」として栄えました。

近代に入り、日鉄嘉穂炭鉱をはじめ、石炭産業で栄えました。

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コースは、筑前大分駅スタート~鴬台~大分宮~筑穂中学~筑穂支所~JR桂川駅ゴールの約10km。

9:30スタート。

 

 

雨も激しくまた風も出てきました。30分ほどで「大分(だいぶ)八幡宮」に到着。

 

大分八幡宮は、祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫命です。

奈良時代の神亀3年(726)に創建されたと云われます。祭神は八幡神・神功皇后・竃門山神です。平安時代の延長元年(923)には、八幡神が大分宮から博多湾岸の筥崎へ

遷座するという出来事が起こりました。大分八幡宮が筥崎八幡宮の前身と云われるのはこのためです。しかし、その後も大分八幡宮は、九州五所別宮第一に位置づけられるなど、

由緒正しい名社として存続しています。境内には、神功皇后が三韓の役から帰国の際に持ち帰った3本の樟の内の1本の子孫であると云われている大樟があります。推定樹齢は約350年、

胴回りの径は約9メートルで福岡県指定天然記念物となっています。
創建当時の社殿は現在地より後方の丘陵上にありましたが、戦国時代に戦乱のため消失。天正5年(1577)に秋月種実が現在地に再建しました。現在の社殿は拝殿、本殿とも

平成7年(1995)に改築されたものです。
神殿裏山の小高い丘陵地は全国でも珍しい皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇陵」として考古学者の学問的期待をかけている聖地です。(飯塚観光ポータルより)

境内には、神功皇后が三韓征伐から持ち帰った3本の樟の内の1本の子孫であるといわれる天然記念物の大樟がありました。樹齢は、約1300年ぐらいです。

   

大分宮から先に進みます。途中、明円寺の前に「大分小学校発祥の地」の石碑がありました。江戸期、ここで寺子屋を始めたのが大分小学校の始まりだそうです。

明円寺から県道90号線に出ます。

  

筑穂元吉から県道65号線へ。

 

 

雨が酷くなってきました。ここからゴールの桂川(けいせん)駅までは、約3km、1時間ぐらい歩かなくてはいけません。

当番のリーダーが調べると原田線「上穂波駅」が歩いて10分ぐらいの所にあるそうです。また、列車の時間も11:25発で今から行くと間に合いそうです。

11:00上穂波駅に到着。今日はここでゴールとします。

 

JR原田線って本数が少ないですね。この列車を逃すと3時間待たなくてはいけなかったです。

 

【追記】筑前茜染

江戸時代末期、鹿児島藩主の島津斉彬が、幕府に日本の「総船印」として日の丸を建議したが、同藩には赤色に染める技術がなかったため、縁戚関係にあった福岡藩主の黒田長溥に依頼。

領内の穂波郡山口村(現飯塚市)の茜屋地区で行われていた茜染めを用い、日の丸を染めたとの言い伝えがある。

茜染は、野や山に自生するあかね草の根を染料とした染技の一つです。化学染料の登場によって姿を消していったこの伝統ある茜染を復活させようと昭和55年、商工会青年部、婦人部が

中心となって挑戦、ネクタイ、スカーフなどを見事な茜色に染め上げました。