よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

京街道(東海道57次)4日目「枚方宿~光善寺駅」(大阪府枚方市)

2022-06-21 18:36:47 | 京街道(東海道57次)

5/20(金)京街道4日目。今日は、午後から若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、街道歩き終了後、福井県敦賀市に移動します。

9:00枚方市駅に到着。駅にある観光案内所で枚方市観光案内のパンフを受け取ります。

先ず最初に行ったのが、「一乗寺」説明文によると、「当山は寺伝によると元は山城の洛北一乗寺村にあった天台宗の寺院で(現在は浄土宗)、現在地が平安京の裏鬼門に当るところから移され、

伝教大師最澄が阿弥陀仏と日吉大神の像を刻し、王城鎮護の寺社と定めた事に始まるという。弘法大師も役行者、弁財天をの2像を安置、天下鎮護の祈祷をしたと伝える。
 1204年(元久元年)法然の高弟で浄土宗鎮西派の祖聖光房弁長が、南海地方に念仏行脚に出る途中風雨を避けて当寺に留錫し、六字名号を残した。これが寺宝の『名残りの名号』であると

伝える。応仁の乱の戦火で寺は焼失するが、枚方城主の本多政康が1600年(慶長5年)本堂及び日吉神社を再建。知恩院の雄譽雲厳を請じ開堂供養し、その高弟光譽素覚を中興開山とした。
 一乗寺の大檀那であった本多氏は百済王氏の末裔を称し、豊臣秀吉に仕えたが、大坂夏の陣のとき、徳川方に攻められ、枚方城は落城、政康は戦死し、本多氏は没落した。
 寺社は徳川氏に没収されたが、その後本多氏遺臣の尽力で復興されるも、往時の勢いは失われた。
なお、政康の娘(乙御前:おとごぜん)が秀吉の愛妾であった関係で、当寺には豊臣家ゆかりの品が伝わっているとのことである。」

また、この寺には、「鈴見の松」という鶴の恩返しの伝説があります。鈴見の松の伝説はこちらです。→枚方の民話 第1話『鈴見の松と別子山の物語』 | 枚方南支部 WP (shoai.ne.jp)

 

一乗寺から万年寺山を登り、「御茶屋御殿」に向かいます。

御茶屋御殿は、案内板によると

京・大阪間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿を建てたのは文禄3年(1596)のことです。三矢村に残る記録から秀吉が「御茶屋」を当地に建てたことが確認できます。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内善正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。

 京都伏見と大阪に拠点を置いた秀吉は、この間しばしば行き来していました。中間にあたる、ここ枚方の地にも立ち寄ったことでしょう。文禄5年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残っています。

 江戸時代に入ると、御茶屋御殿は幕府公用の施設となりました。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永9年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。家光来訪の際には、秀吉が建てた「台茶殿」の脇に桁行5間、梁行3間の御殿が新築されました。「河内鑑名所記」には、桧皮葺と思われる三棟の建物が描かれている。

 その後は利用されることもなく、「大茶殿」は承応3年(1654)老朽化により解体され、新築御殿がその用材の収納庫にあてられていました。しかし、延宝7年(1679)7月1日に起った火事によって新築御殿もろとも全焼し、以後再建されることはありませんでした。

  

 

 

御茶屋御殿跡を下りてくると「移ろいの座」というのがありました。「台座の中央に刻まれた溝は夏至の日のお日様の通り道です。太陽のエネルギーが最も力強く感じられる夏至の日は季節の指標として 古来重要視され人々が集うイベントの日でもありました。『移ろいの座』は、その故事に因み、癒しの里にも市民が集い、プロジェクトの活動が世代を超え継承されていくようにとの

願いを込めています。」

 

京街道に戻ってきました。

  

京街道から「淀川資料館」に向かいます。説明文では、古代、大阪のほとんどは海でした。長い年月をかけて、琵琶湖から注がれる淀の流れが土砂を運び、大阪の地を作ったのです。

歴史の中で、幾度も姿形を変えていった淀川。理由の半分は、自然の猛威の歴史。そしてもう半分は、人と淀川との闘いの歴史です。
淀川資料館には、淀川と対峙し、歴史と文化を築いてきた人々が残した、貴重な本物の資料があるのです。ここへ来て、彼らの足跡に思いを馳せれば知られざる淀川の歴史に一歩近づくことが

できるはずです。

館内には、淀川の歴史、淀川の工事に尽力された方々の資料などが展示されています。

 

  

船番所跡は、江戸時代中期以降、三十石には、「過書船」と「伏見船」の2つがあり、それぞれの番所があり、乗客や荷物をチェックしました。

通行手形を持つ特権川船のことを過書船と称し、享保初年(1716)には、乗客を主とした30石船671艘、貨物運送を主とした20石船507艘が、大阪と京・伏見の間を航行していました。

 一方、過書船の営業独占に対抗して、元禄11年(1698)に伏見船の営業が認められたため、両者は、激しく競合しました。泥町村には、過書船・伏見船の船番所がそれぞれ設置され、

淀川を上下する船を監視しました。

 30石船は船頭4人、乗客定員28人で伏見から大阪への下りは半日か半夜、上りは、竿をさしたり、綱を曳き上げるため、1日か1晩を要しました。

 船客相手に飲食物を商う煮売茶舟(にうりちゃぶね)は、「餅くらわんか、酒くらわんか」という売り言葉から俗に「くらわんか舟」と呼ばれました。

昔から、淀川は大阪と京都を結ぶ交通の大動脈として、多くの舟が上下していましたが、大阪夏の陣(1615)の時に徳川方に協力した功によって、淀川を上下する舟に、食物を売る特権を与えられたのがくらわんか舟で、後に地の利によって、枚方の方が繁栄したようです。

発祥の地は、高槻市桂本といわれ、「柱本茶船記録」に書き残されています。1615年の夏の陣で徳川方に協力した報奨として、兵量輸送地であった高槻市桂本に、徳川幕府から商い船の特権が

付与されました。その桂本の淀川堤防上には、くらわんか舟発祥の地としての碑が建てられています。

尚、「江戸っ子だってね、食いねえ寿司くいねえ」のセリフで有名な廣澤虎造の浪曲「森の石松三十石船」は、この三十石船を題材にしています。

西見附は、枚方宿の西側にあります。江戸へ向かう参勤交代の大名が通る時は、まずここに一報が届きました。

 

西見附から先に進みます。このあたり国道170号線と府道13号線が交差しており迷路みたいになっています。地図では「枚方大橋南詰」になっているのですが、この南詰の信号が

わからない。近くの人に聞いてやっとわかりました。

 

国道と府道が交差する前の橋から「水面廻廊」を通っていけばよかったのに・・・・

水面廻廊とは、昭和初期に農業用水路として造られたもので、寝屋川市界まで2.8kmの長さがあります。

枚方市では、この水路を出口雨水幹線として改修するのを機会に、豊かなうるおいのある街づくりの一環として、「水面回廊」と名付けて、地域の状況に応じた整備を進め、

水に親しめ安らぎのある水辺空間を創造していきます。枚方市の桜の名所にもなっています。   

   

伊加賀小学校を通り、「光善寺」へ。

出口御坊光善寺(でぐちごぼうこうぜんじ)は、蓮如上人開基の寺であります。
 文明七年(1475)八月二十一日に福井県の吉崎を退去され舟にて小浜に着かれ、丹波・摂津を抜けて九月五日に河内国茨田郡中振の郷出口村に移られました。御厨石見入道光善が草庵を建ててお迎えされました。出口は京都と大阪の中間地点で淀川の南岸に接し、水陸交通の便利な土地柄でした。当時この地には二丁四方(一万四千四百坪)の大きな池があり、それを埋め立てて諸堂を建立されましたので、山号を淵埋山(えんまいざん)と名づけられました。
 その池は今も小さく残され、石川丈山作という光善寺庭園の一部となっています。
 また池の周囲には梓(はり)の木「現在の植物名-さいかち」がよく茂っていましたので、人びとは光善寺のことを「梓原堂(しんげんどう)」とも呼んでいたと伝えられています。今も光善寺庭園の片隅に梓の大木が残っていて、大阪府の天然記念物に指定されています。
 池に面した書院は五百二十数年前の蓮如上人ご在住当時の姿で残されています。石川丈山は、この書院を萬象亭と名づけました。当時は池のすぐそばを淀川が流れていて、三十石船の上り下りする情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めでしたが、今は淀川の堤防が五百米以上も西へ移り、その風情は昔話となりました。
 天文三年(1534)火災にあい、一時は淀川の向こう側の摂津国島下郡鳥飼や、河内国茨田郡大場等に移転していましたが、慶長年間に再び出口に還って再建されました。
 現在は敷地約三千坪で、本堂は約三百六十年前の建設になるものです。間口は十一間、奥行は八間の大きさです。(光善寺HPより)

 

光善寺から再スタート。このあたりの地図は用意していますが、目印がなく、今、自分がどこにいるかわからなくなりました。

番地を頼りに歩きますが、番地が書いてある所と書いてない所があり、この道で合っているかどうか不安でした。

蓮如上人御田地、腰掛石・・・福井県吉崎から蓮如上人が最初に身を寄せられた「箕屋」があった所です。上人は、このこの石に腰掛けて説教されたそうです。

御田地とは、お上から預かった田畑ですが、ここでは説教の場所です。

 

蹉跎(さだ)神社の御旅所があります。蹉跎神社は、ここから約1、5km先にあります。

延喜元年(901)菅原道真が大宰府へ左遷される途中、山の上で休憩し、都の方を望んで名残を措しんだ。その場所を「菅相塚」という(現寝屋川市菅相塚町)。

その後を娘の苅屋姫が追いかけたが、あと少しの所で間に合わず、足摺り(=蹉跎)して嘆いたという。ここから、その山を「蹉跎山」と呼ぶようになった。大宰府でその話を聴いた道真は、

三尺二寸の自身の木像を作って娘に送ったという。天歴5年(951年)、蹉跎山に社殿を造営して木像を祀り、近隣25箇村の産土神としたのが当社の始まりと社伝に伝える。(Wikipediaより)

 

  

時刻も12時半を廻りました。今日は、若狭・三方五湖ツーデーマーチ参加の為、大阪発14時半ぐらいの特急を予約していますので今回は、ここまでとします。

次回こそ、大阪・高麗橋迄完歩したいと思っています。