11/4(水)の福岡ウォーキング協会楽しいウォークは、「遺跡を訪ねて」でした。
集合は、JR南福岡駅近くの寿町公園。9:30スタート。
雑餉隈(ざっしょのくま)の銀天町商店街を通ります。商店街の突き当りが「西鉄雑餉隈駅」。
福岡の難解地名で有名な「雑餉隈(ざっしょのくま)」ですが、江戸時代博多から大宰府を結ぶ「大宰府往還路」の間(あい)の宿であったことから大宰府詣でをする人々の為の
休憩の場所として酒食を商う店で古くから栄えました。雑餉隈の「餉(しょく)」の意味は、めし、食料、旅人や田野に働く人などの携帯食糧、弁当などの意味があります。
朝餉、昼餉、夕餉に使う「餉」です。「隈」という意味は後程説明します。
尚、JR南福岡駅ですが、昭和40年代までは、国鉄雑餉隈駅でした。
御笠川を渡り、金隈(かねのくま)遺跡へ。
金隈遺跡は、福岡平野の東を御笠川に沿って南北にのびる月隈丘陵のほぼ中央にある。
弥生時代の共同墓地の遺跡で、弥生時代前期の中頃(紀元前2世紀)から後期の前半(2世紀)までの約400年間にわたって営まれた。
この遺跡からは、348基の甕棺墓と119基の土壙墓、2基の石棺墓が発掘されている。最初に土壙墓が作られ、その後に甕棺墓、最後に石棺墓が作られたものと考えられる。
甕棺墓からは、136体の人骨が出土した。平均身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmで、縄文人と比較すると、顔も面長になり、身長も急に高くなっている。このことから、
朝鮮半島との交流による混血が行なわれていたのではないかと考えられる。墓中の副葬品には、種子島からオーストラリアまでの海中にしか生息しないゴホウラ貝で作った腕輪や、
石剣、石鏃、首飾り用の玉などが見つかり、中国大陸や南方文化との交流を物語っている。
福岡市教育委員会が行なった、これらの発掘調査の結果から、遺跡は、弥生時代墓制の典型的な遺跡として、昭和47年に国指定の史跡として保存されることとなった。
昭和60年3月には、遺跡を保存、展示するため、発掘調査現場に屋根をかけるような形で展示館が建てられ、甕棺や人骨が発見されたままの状態で見学することができる。(福岡市の文化財より)
博多区には、金隈のように「隈」が付く地名があります。月隈、雑餉隈・・・・・
隈というのは、川の流れが屈曲している所です。この地域でいうと御笠川です。昔は、曲がりくねった川だったのでしょうね。
我が国最古の稲作集落跡の一つ、国指定板付遺跡にやってきました。福岡市の文化財HPを見ると、福岡平野の中央よりやや東寄りに位置する。御笠川と諸岡川に狭まれた標高12mの
低い台地を中心として、その東西の沖積地を含めた広大な遺跡である。遺跡は弥生時代が主であるが、それに先立つ旧石器、縄文時代や後続する古墳~中世の遺跡もある複合遺跡である。
台地上には幅2~4m、深さ約2~3m、断面Ⅴ字形の溝を東西約80m、南北約110mの楕円形にめぐらした環溝がある。環溝の内外には米やその他の食料を貯蔵するための竪穴(貯蔵穴)が
多数掘り込まれている。
台地の東西の低位段丘上には旧諸岡川から用排水路が引き込まれ、水路には井堰が設置されており、水をコントロールできるようにしている。また、土盛り畦畔で囲まれた水田には
水口(水尻)を設けており、整備された水田が開かれ、稲作と共に高度な土木技術がもたらされたことを証明しているとともに日本で最も早く稲作農耕が開始された。
弥生時代前期末には北部九州でも有数の集落に発展している。大正五年に環溝の東南に位置する田端地区から甕棺墓数基が発見され、中から細形銅剣、細形銅矛各3本が出土している。
これらの甕棺墓には大きな墳丘があったとみられ、有力者が台頭したことを示している。このころは環溝周辺だけでなく、北方の現板付北小学校や南側の台地にも集落が広がり、
貯蔵穴群や墓地が発見されている。このように、板付遺跡は日本における稲作農耕の開始について重要な問題を提起するとともに、弥生時代の人々の生活や社会を解明するのに、
集落、墓地、生産地(水田)が一体となって把握できる数少ない遺跡である。
出土遺物は莫大な量にのぼり、土器、石器、本器をはじめとして、当時の自然環境を知ることのできる自然遺物が検出されている重要な遺跡である。(福岡市の文化財HPより引用)
板付遺跡弥生館では、弥生時代の水田や竪穴住居などが復元されています。
板付遺跡からゴールの山王公園を目指します。
11:50 山王公園へゴール。
今日のGPSです。GPSでは、9,15kmと表示されていますが、このあと博多駅まで歩きましたので約10km歩きました。