よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

筑前五ヶ浦廻船と今津干潟の野鳥を見るウォーキング下見(福岡市西区)

2019-02-06 21:13:31 | ウォーキング

1/28(月)  3月のサタデーウォークのコース「筑前五ヶ浦廻船と今津干潟の野鳥を見る」ウォーキングの下見に行ってきました。

筑前五ヶ浦廻船」とは、江戸時代、博多湾内の西側にある、能古島(のこのしま)、浜崎(はまさき)、今津(いまづ)、宮浦(みやのうら)、唐泊(からどまり)の5つの浦の船乗りたちは、

巨大な弁才船(べざいせん)(千石船)に乗り込んで、日本全国を舞台に活躍していたことがありました。彼らの廻船は五ケ浦廻船と呼ばれ、今もさまざまな足跡を残しています。

 五ケ浦の廻船は、福岡藩の年貢米を大坂や江戸へ運ぶことを第一の仕事としていました。それが秋に終ると、こんどは東北や蝦夷地(現北海道)の米や産物を大坂や江戸に運びました。

廻船業は長い間故郷を離れての、しかも海の大自然を相手の厳しい仕事でした。しかし利益も多く五ケ浦に繁栄をもたらしました。五ケ浦廻船が最も活躍したのは17世紀後半から18世紀の中頃でした。

その後は、特に日本海側の廻船(北前船)の台頭や、数多くの遭難がもとで、五ケ浦のうち2ヶ所が活動を止めるなど、筑前五ケ浦廻船の全盛期はややすぎてしまいました。

しかし幕末でも能古島の虎吉丸(とらよしまる)など1,700石積の巨大な廻船が、幕府の御用船に選ばれるなどの活躍をしており、江戸時代の五ケ浦廻船の歴史の最後のかがやきを見せています。

ただ、現在その遺蹟は殆ど残っていません。

   

JR今宿駅をスタート。横浜から海岸に行きます。ここ横浜は、江戸時代怡土郡、志摩郡(現在の糸島市)の米を貯蔵する「米蔵」がありました。この米を五ヶ浦廻船が江戸、大坂に運んでいました。

現在この場所も確定されていません。

   

今津橋から見ると鉄塔の跡が見えます。これは、戦後すぐ米軍依頼で板付飛行場工事の為、今山と対岸の毘沙門山から砕石が掘られ、ケーブルカーで今山まで運ばれていました。

そのケーブルカーの跡です。

  

筑前五ヶ浦廻船「浜崎浦

現在は、レジャーボートの係留地になっていますが、江戸時代は、筑前五ヶ浦廻船「浜崎浦」でした。

宝暦2年(1752)12月、浜崎の廻船「福聚丸」は青森から塩魚、大豆、小豆を積んで江戸に向け出港しましたが、福島県いわき沖で遭難しルソン島へ漂流しました。

当時、厳しい鎖国政策をとっていた幕府に疑われないため、浜崎、今津の2つが廻船業から撤退させられ、幕末頃には残りの3つの浦による廻船業が続いていました。

  

浜崎浦から日赤病院を通り、福岡県水産海洋技術センターへ。ここで休憩。

  

水産海洋技術センターから誓願寺を目指します。

誓願寺は、臨済禅を日本に伝えた人物、又、お茶を日本に普及したとして有名な栄西(ようさい)との関係が深く、当寺の建立頃は当寺を活動の拠点とし、2度目の渡宋を果たす文治3年(1187)迄

この誓願寺に滞在しました。この間宋版一切経の入手に努めました。栄西自筆の「盂蘭盆(うらぼん)縁起」は国宝に指定されています。

  

  

元寇殲滅之碑」は、1913年(大正2年)に発掘された今津地区の元寇防塁を保存し後世に伝えていくため、1915年(大正4年)に建てられた石碑です。

碑の上部にはハートマークが刻まれています。元寇の戦いの中心になったのは、長崎県鷹島ですが、当時玄界島も鷹島と呼ばれており、この記念碑は玄界島の方を向いてます。

今津浦」 今津は、もともと「登志(とし)郷」と呼ばれていました。「登志」という意味は、韓国語で朝日が出る所という意味です。つまり可也山(糸島富士)から見て朝日が昇ってくる所が「登志」即ち「今津」でした。

11世紀ごろになると有力な荘園領主は、宋との直接貿易による私貿易を行うようになります。今津は京都の仁和寺の荘園になり怡土庄の貿易港として開けました。

また、1150年代大宰府目代「藤原宗頼」が博多の宋人街を襲い、世情不安定な博多津を避け、今津に立ち寄るようになりました。博多津の古津に対する新しい港ということで「今津」と呼ばれるようになりました。

その後貿易港として発展しましたが、1750年代外国への漂流事件後、浜崎と共に廻船業から撤退させられ、今日に至っています。現在では、昔の面影を残すものが残っていません。

   

コースは、このあと、今津干潟へ行きます。

  

今津干潟は渡り鳥の飛来地として有名です。この日も絶滅危惧種「クロツラヘラサギ」がいました。

 

 

 ゴールは、九大学研都市駅です。ここまで11km余のウォーキングでした。