よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

第14回「縄文の杜あおもりツーデーマーチ」2日目縄文満喫コース20km

2016-08-06 21:39:28 | オールジャパンウオーキングカップ

8/1(月)縄文の杜あおもりツーデーマーチ2日目。この日も4コースがあり、私達が参加したのは、「縄文満喫コース」20km。

このコースには、江戸時代から知られている縄文時代の遺跡「三内丸山遺跡」があります。文献では知っていましたので、興味津々です。

今日は、天気も回復し、紫外線も強くなりそうですので、私も紫外線対策をしました。昨日痛めた膝は、だいぶん回復しました。

  

出発式の後、7:00バスで小牧野遺跡まで移動します。小牧野遺跡を見学し、コースは、ここから三内丸山遺跡を通り、八甲田丸メモリアルシップまで戻る20kmです。

 

小牧野遺跡は、土地造成と特異な配石で構築された縄文後期前半(約4000年前)の大規模な環状列石(ストーンサークル)を主体とする遺跡です。

  

国の史跡小牧野遺跡のストーンサークルは、細長い石を縦横に並べる独特な石の組み方をしており、これは「小牧野式」と言われています。直径2.5メートルの中央帯、直径29メートルの内帯、

直径35.5メートルの外帯の三重の輪のほか、さらに外側に、一部四重となる弧状列石や、直線状列石、直径4メートルの環状列石などがあり、直径は55メートルにおよびます。

小牧野遺跡では人が死ぬと最初に土葬をして、次に肉が腐ると骨だけを甕棺土器に入れて再葬した跡が残っています。土葬用の穴が50基に対し再葬用の穴が3基しかないことから、

再葬は有力者のみが行ったと思われています。

縄文時代の大規模なストーンサークルは、北海道、東北、などに多くみられるそうです。残念ながら私が住んでいる北部九州には、あまりみられません。

やはり、縄文文化を創った民族の違いでしょうか?

この小牧野遺跡は、1989年(平成元年)に地元の高校生たちによって発見されたそうです・

 

  

  

午前8時コースの説明を受け、小牧野遺跡どんぐりの家を出発します。

  

1,5kmほど下りて行った所に「縄文の里小牧館」があります。入ってみようかと思いましたが、開館時間が9時からなのでパスしました。

  

4,6km地点の高田小学校が給水所。今日は、昨日と比べて蒸し暑くなく、そんなに喉もかわいていないのでパスしました。

家内は、このころから、青森の女性の方と一緒に歩いています。私も話の中に入ろうかと思いましたが、やはり女は女同士ですね。(笑)入る余地がありません。

  

高田と細越の間に「旧大橋村跡」の碑がありました。江戸時代天明の飢饉で廃村になったそうです。

東北地方は、1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、

7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。

このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。

空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、人々は不安げに空を見上げることが多くなった。約30年前の宝暦年間(1751年-1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。

被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えている。(ウイキペディアより)

現在では、新幹線や高速道の間に田園地帯が広がっていますが、こんな悲しい出来事があったとは、信じられません。

 

   

昔からの「村」があったからでしょうか、民家には、古い「蔵」が残っています。

細越神社の由来 :     慶長年間、この地域には、大橋村、枝村、中村、細越村、漆新田村、長沢村の六つの集落があった。往時、相次ぐ凶作や災害により、大橋村、長沢村の住人は困窮し、

やがて離散し、今は住家も住人もいない。明治の頃、枝村に深山神社、漆新田村に三輪神社があり、それぞれ異なる慣習、祭事があり、それが互いの対立意識を煽り、すべての事に争い事が絶えなかった。

事を憂いた若者達は、再三、両神社の合併に依る和平をはかった。遂に、大正五年、地域のほぼ中央の位置に大字名、細越を入れ、細越神社として、両神社の祭神の鎮座を仰ぐにいたった。 (細越村郷土誌より)

神々を尊び、地域の融和を願い、力を尽くされた先達を偲び、我々も又、その偉業に追従する事を誓い、過ぎし事、ここに記し、建立する。

   

青森自動車道の所の信号から左折。コースは、青森道と並行します。家内と一緒に歩いているK・Mさんは、野草に詳しく野草の名前を教えてくれます。

葛の花は、初めて見ました。

  

10:20 チェックポイントの「三内(さんない)丸山遺跡」に到着。ここで11,2km。ゴールまであと8kmです。

  

三内丸山遺跡は、江戸時代から知られている有名な遺跡です。県営野球場建設の為、平成4年(1992)から始まった発掘調査では、縄文時代前期~中期(約5500年~4000年前)の大規模な

集落跡が見つかりました。そういえば、佐賀県吉野ヶ里遺跡(弥生遺跡)も大型工場用地造成の際に発見されたそうですので何か、似ていますね。

出土品には、沢山の竪穴住居跡、堀立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などの他、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土しました。

縄文時遊館の2階から遺跡現場に向かいます。

  

三内丸山遺跡の広さは24haに及び、竪穴建物跡、掘立柱建物跡、列状に並んだ土坑墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物跡などが計画的に配置されています。

また、膨大な量の土器や石器などが出土しており、日本で最多となる土偶約2,000点の出土に加え、低地からの食生活や環境を示す動植物遺存体、木製品、骨角器、編籠、漆製品などの有機質遺物、

さらに、ヒスイや遠隔地産の黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土しています。

縄文時代、ここに大きな「ムラ」が存在していたのでしょう。

 

  

遺跡群を見て、時遊館の展示品を見に行こうかと思って、時遊館の方に向かうと、ウオーキング大会のアンカーの方が待っておられました。

もう時間だからということで止む無く展示品は見らずにウオーキングを再開することにしました。(もう少し時間があればいいのですが・・・・・・)

ここからは、アンカーさんと一緒に歩きます。沖館市民センターが最後の給水所です。

  

  

青森駅の横を通ります。駅には、特急「つがる」が停車しています。

  

連絡橋を通り、ゴールの八甲田メモリアルシップへ。  12:20 20kmコースゴールしました。

  

真夏の中のウオーキング大会でしたが、2日間無事完歩できました。

このあおもりツーデーマーチは、8コースあり、どれも歩きたいコースばかりです。いつかは、あおもり湾や津軽海峡のコースも歩きたいと思っています。

(青森県に地図を逆さまにすれば、鹿児島県の地図に似ていますね)

8/1 縄文満喫コース20kmのGPSです。